日本沈没の時、「なにもせんほうがええ」を受け入れてしまいそうな自分

 「深読み読書会」(NHKBS/3月17日)が「日本沈没」を取り上げていました。

 
10代のころめっちゃハマっていた小松左京。今でも本棚に数冊あったなぁと久しぶりに取り出してみました。
どれも日に焼けて、しかもところどころページ角に折った跡もあって、そりゃそうだ40年以上も前の本だから。
ぱらぱらとめくってみたら、う〜んおもしろい、今でも引き込まれそうな描写がいっぱいで、ダメだ、今読み始めてはダメだ、読むのはまた今度ゆっくりと。
 
 
小松左京は特に長編が好きだった。
 
恐竜が闊歩する時代にどこかで電話機の金属音が鳴り響いているというプロローグに身震いした「果てしなく流れの果に」
果しなき流れの果に (ハルキ文庫)

果しなき流れの果に (ハルキ文庫)

 

 

 
(情報隔絶時代の)中国奥地でなにかが起こっている、で始まる「見知らぬ明日」
見知らぬ明日 (角川文庫)

見知らぬ明日 (角川文庫)

 

 

なんだか難しくてよく覚えていないけどおもしろかった記憶だけがある「継ぐのは誰か?」
継ぐのは誰か? (角川文庫)

継ぐのは誰か? (角川文庫)

 

 

自分以外の人が消えた「こちらニッポン」
こちらニッポン… (ハルキ文庫)

こちらニッポン… (ハルキ文庫)

 

 

 
どの本も知的な謎にあふれていて、しかも登場人物の職業も10代の少年にとってはカッコイイ職業(新聞記者・潜水艇乗組員・マッドサイエンティス・南極観測隊員)で、読んでいるときだけ少し背伸びできた思い出さえあります。
 
しかしそこはやはり悲しくも幼き10代、表層的なスペクタルや仕掛けに目を奪われ、深層に漂うテーマに気づかず素通りしてしまっていました。
 
 
例えば、今回の「深読み読書会」で取り上げられていたこの箇所。
 
日本が沈む、となった時、国として取るべき手段はなにか、という部分です。

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1:日本民族の一部がどこかに新しい国をつくる
2:各地に分散し、どこかの外国に帰化する
3:難民として分散する
 
の3つが挙げられ、さらに特殊意見として挙がったのがこれ。
 
「なにもせんほうがええ」

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今あらためてこのセリフが出てくるシーンを読み返してみたら、そこはほんの1〜2ページでさらっと読み飛ばしてしまいそうです。
 
でも、いま、50代になって読み返して、「なにもせんほうがええ」って?そんなばかな!ではなく、あり得るかも、と受け入れてしまいそうだからです。その意見に妙にしっくりと納得してしまう自分に驚きです。
 
 
 
 
 
ドキュメンタリー映像を見ていてときおり思うことがあります。
 
多くのドキュメンタリーは逃げなかった人を描いています。病気や挫折やまたは災害などに遭遇し、でも逃げずに立ち向かい新たなスタートを切った人たちがドキュメンタリーの主役として描かれます。
 
でもその反面、描かれなかった「逃げてしまった人」もいるはず。
時と運命に流され、「なにもしないまま」の人もいたはず。
 
そういう人たちを「弱い」「負けるな」と言えない自分がいます。
自分ももしかすると、絶望の淵に立ち、どうしようもなくなってしまった時の選
択として「なにもしない」を選んでしまうかもしれないと思ったのです。
 
 
これは年齢によるものなのか。気力と体力によるものなのか。
自分が背負わねばならないものの多寡によるものなのか。
それとも、状況、というか環境というか、そんな切迫感にもよるのでしょうか。
 
今この瞬間、身に危険が迫ってきたならば、おそらく死に物狂いで戦ったり逃げたりすると思います。
 
でもそうではなく、どう抗っても歯が立たない巨大な障害や災害には流れるまま無抵抗に従ってしまう、そんな気がしてならないのです。
 
しかも日本が沈む、というのは、自分ひとりだけにのしかかってくる出来事なんかじゃなく、日本国民すべてに訪れる事態。
ならば一蓮托生でもいいか、どうせみんな一緒に沈んじゃうわけだし、ジタバタしてもしょうがない。
で「なにもしない」
家も財産も確実に消え去り、家族も同時に同じ運命と為らざるをえないのならば、「なにもせんほうがええ」
そういった選択も「あり」かもしれないのです。
 
 
 
日本沈没」には、最終的にボツになった草稿があって、そこにはこんなセリフがあるようです。
 
 
「一億全部が島を離れず滅んでいってもいい。他国の迷惑やお荷物になるぐらいだったら、この国で死んでいった方がいい」

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でも、その草稿を小松左京は没にしました。
 
「なにもせんでええ」は特殊意見にとどめ、実際に小説内では、国が世界各国に働きかけ、移住受け入れに奔走します。
 
日本列島という故郷はなくなっても、日本国民はアイデンティティを抱いたまま世界へと散らばっていきます。
 
 
小松左京は、<SFとは希望だ>と言っています。

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小松左京が本当に描きたかったのは、日本国民が世界に散らばったあとの第2部なんでしょう。
(共著という形で第2部ありますが、こちらは正確には小松左京の本ではないので除外)
 
 
 
日本沈没」は、たしかに日本列島が海面下に沈み、失われてしまうカタストロフィな小説ですが、再びアイデンティティを取り戻すであろうという<希望>を感じさせてくれてはいます。
 
 
しかしでも、希望といいながらも、どうも最近「希望」を抱くのさえむなしくなる「不信」が国に対して起きています。
 
真実はどうなのかそれは分かりませんが、書き換えただの改ざんだの嘘の証言だの、なにを信じていいのやら。
国が信じられないって恐ろしいことです。
「希望」を抱くことの虚しささえ感じます。
 
「なにもせんでもええ」に納得してしまったのは、この時代の、この国のムード、のようなものに思わず影響されてしまったのかもしれません。
 
 
 
 
 
そういえば村上龍の「希望の国エクソダス」には、
「この国には何でもある。本当にいろいろなものがあります。だが希望だけがない」というセリフがありました。
なんか最近の出来事をみていると、このセリフも妙にしっくりときます。
希望の国エクソダス」も読み返してみよう。

 

日本沈没 上 (小学館文庫 こ 11-1)

日本沈没 上 (小学館文庫 こ 11-1)

 
日本沈没 下 (小学館文庫 こ 11-2)

日本沈没 下 (小学館文庫 こ 11-2)

 
日本沈没

日本沈没

 
希望の国のエクソダス (文春文庫)

希望の国のエクソダス (文春文庫)