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あさイチ「発達障害〜自分の苦手とどうつき合うか」を見て。まずは理解から始まる

5月24日朝は8時30分を過ぎた頃から見始めた「あさイチ
おや、いつもとスタジオの雰囲気が違うぞ、背景がベージュ一色となっている。
 
どうやら今日のテーマの「発達障害〜自分の苦手とどうつきあう」に合わせた背景らしい。キラキラしたセットが眩しく苦手という「過敏」の声に応えて、照明もいつもより15%ほど落としているとのこと。BGMも集中できないということでカットされていた。
 
途中からだったので、栗原類さんの「苦手」は残念ながら見れなかったけれど、その後扱っていた「偏食」「片付け」には、いろいろと考えてしまいました。
 
 
今まで偏食は(もちろんアレルギーでダメ、もあるでしょうが)単純に好き嫌い、わがまま、だと思っていたからです。
おとなになっても、嫌いものをよけたり、避けたりしている人もいて、どんなわがままな子ども時代を送ってきたんだ、と冷ややかな目で見ることもありました。
 
 
片付けだってそう。
片付け出来てない部屋や机の周りがぐちゃぐちゃの人を見ると、自分が几帳面な性格でもあることからか、単純にズボラ・だらしないと、もう直らない「性格」と決めつけ、軽蔑さえしていました。
 
 
しかし、それが「発達障害」という病気かもしれないと考えると、ああ、今までなんてことをしてきたんだと大反省です。
 
 
発達障害」という病名が明らかになって、広く世間に知られるようになってどれだけ経つんだろう。
 
でもやはり、それでもまだ一般には、片付けできない集中できない忘れっぽいは、ズボラ・だらしない・ドジ・いい加減、と決めつけて、こいつはできない奴、ダメな奴と烙印を押し、「フツーじゃない人」と見放してしまうことが多いような気がします。
 
 
 
ホントに「フツー」てなんだろう。
 
 
 
栗原類さんが言っていた。
自分は手先が不器用。辞書をめくることが苦手だった。
アメリカの学校にいる時は、それを理解してもらい、電子辞書を使うことが許されていた。
 
目の悪い子もクラスの席の一番前に座ることで、他の「フツー」の子たちと同じポジションに立つことができるのに、日本では全員が同じ教材や同じ条件の「フツー」でいることが求められると。

 

 
番組では、発達障害の子たちを受け入れた取り組みも紹介していた。
「あなたはアナタ、問題は問題」と、自分と問題を分ける「自分研究」
この取組みは、素晴らしかった。大人でもやってみるといいかもしれない。
 
 
でも、こういう場と理解のある教師がいない子どもたちの方が圧倒的多数で、その圧倒的多数の子どもたちが、周りの無理解のために、どれだけ自分を責めることになっているんだろうと想像すると、なんだか苦しくなってきます。
 
 
 
この間の、がん患者に対する「働かなきゃいいんだ」発言なんて、その最たるものかもしれません。
 
 
 
 
 
改めて発達障害LGBTと名付けられたからだけで、昔からそういった人たちは一定数いたはずで、でも周りに知識がなく、理解もなく、それ故「フツー」という枠から外して見られ、「特別」のひと言で片付けられてきたわけで、もうこれからの多様化社会では旧式の凝り固まった考え方を改めなくちゃいけない。
 
 
 
考えてみると、絵本の世界って発達障害かもしれないいくつかを題材としているような気もします。
 
偏食しちゃダメ、
ちゃんと片付けましょうね、
よそ事しちゃダメ、
 
「フツー」を基準に考えると、「フツー」じゃない子を主人公にしたほうが
受け入れやすく微笑ましいけれど、どうやらこの多様性社会ではそんな単純にはいかないかもと予感します。
 
 
 
 
 
 
しかし「KY〜空気読め」って、ある種拷問のようなコトバなのかもしれないですね。

 

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