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「蜂蜜と遠雷」を読んで。文章が「音」に「音たち」に変わる魔法の小説

上下2段500ページ超えの最初の1ページを開くタイミングは、難しい。下手にハマってしまうと抜け出せなくなってしまうから。
特に今週は撮影が続くから手を出すのは極めて危険。と、そんなとき、
天候の問題で撮影延期の連絡が。プレゼントのようなこの時間が、そのタイミングです。
  
役者の天才とその演技を文章で表現した「チョコレートコスモス」、そしてこの、天才たちの演奏を文章で描き分けた「蜂蜜と遠雷」
恩田陸という人は天才を描く天才ですね。

 

蜜蜂と遠雷

蜜蜂と遠雷

 

 

この小説、ただ数日間のコンクールに出場する数名の演奏者とその演奏を書いただけのシンプルなストーリー。
 
実はまだ読み終わっておらず途中なので、もしかして違うかもしれませんが、おそらくライバルの戦い、恋愛への発展、とんでもない謎、なんてものは今後出てこなさそうです。
なのになぜ、ぐいぐい引き込まれていくのか。
 
電車で読んでてても部屋で読んでてもトイレにこもって読んでても、そこがどんな場所であろうとも、いつの間にか舞台であるコンクール会場の真っ只中へと変わるのです。
 
目で見る単語が熟語が文章が、突然「音」に変わり、「音たち」となり、さらには「音
たちの重なり深まり」へと増大して四方八方から襲いかかってくるのです。
 
しかも、1次予選から2次、3次、そして本選と、登場する曲すべてでその表現を変えるだけでなく、演奏者のキャラクターを含めた表現となって描き分けられているのです。そんな。なんという。無謀で。自信に満ちた挑戦。恐ろしい。
この小説は、アートです。
 
 
 
「蜂蜜と遠雷」を読んでいて思い出した事があります。
視覚障害者による絵画鑑賞です。見えない人に、見える人が、今目の前にある絵画を言葉で語り伝える鑑賞法です。(伊藤亜紗「目の見えない人は世界をどう見ているか」より) 
目の見えない人は世界をどう見ているのか (光文社新書)
 
見える人が語るのは、目の前にある絵の大きさ、カタチ、色、モチーフなど目に「見えるもの」と、もうひとつ、見ている人にしかわからないもの、思ったこと、印象、思い出したことなど主観的な「見えないもの」。
 
 
この鑑賞方法によって「見える人」と「見えない人」双方に新しい発見が生まれるといいます。
 
「見える人」にとっては、人に語るためによく見る、神経を集中させる、自分に問いかける、解釈を巡らせるなど。
それによってただ自分ひとりで鑑賞している以上の発見が生まれます。
 
「見えない人」にとっては、語られる断片をもとに頭のなかで組み立てていき、推理し、脳裡には再構築された自分だけの絵画が生まれます。
 
 
ひとりだけの世界に閉じこもって鑑賞と異なり、互いに言葉をかわすことによって「見える人」も「見えない人」も情報の再発見と修正や補正をを行うおもしろさもあります。
 
 
どんな人が語ろうと目の前に飾られた絵が変わることはありません。
それは確かにそこにあるひとつの事実です。
 
でも、語ることで解釈し直すことで見つめ直すことでどんどんと人それぞれの中で絵画は変っていきます。
 
 
 
音楽もそうなのかもしれません。
 
楽譜に書かれた事実は変わらない。でも、演奏者がどんな解釈をそれに施すかによって音は全く異なって生まれ変わる。といいます。
 
でも、悲しいかな、(特にクラシックの)音楽鑑賞力に疎い自分にはその違いはわからず、単純に好き嫌いでしか判断できません。
なかなか一般にはわかりづらいその差異を文章で表現してくれているのがこの「蜂蜜と遠雷」です。
 
 
これが実際のコンクールの会場ならば、演奏された曲を聴いてすべてを理解するしかありません。
でも小説ならば、演奏者の個性(キャラクター)を作り分け詳細に書き込むことができます。
 
徹底的に作り込まれた書かれた演奏者個々のキャラクターがあるから、読む人は勝手に、多分この人はこんな演奏するんだろうな、と人物像をイメージしてくれる。
演奏の描き分けを際立たせるバックボーンとしてのキャラクターの書き分けがあるから演奏の描き分けの説得力が増してくるのでしょう。
 
 
 
先程の視覚障害者の話にこんなエピソードがあります。
視覚障害者の人が紅茶を飲んでいる。陶器製のカップで飲んでいる。でも、その人はそのカップをガラス製だと思っている。
目の見える人が「それは陶器のカップ」だと伝えてあげると、その瞬間、その人のなかでガラス製だったカップが、突然魔法のように陶器に変わるそうです。
その視覚障害の人は中途失明だから、陶器もガラスも知っている。透明不透明という概念も知っている。
ガラスが陶器に変わった瞬間、透明だったカップが不透明にも変わるそうです。
情報が事実を変えてしまう。
 
 
 
これを小説に置き換えると、その情報がキャラクターではないかと思います。
この人はこういう生まれでこういう育ちでこういう境遇でこうした音楽への取り組みをしてきた、という丁寧な書き込みがあることで、読む人はその人が奏でる音楽の世界観と迫力を勝手に創り上げてしまうのでしょう。
 
「蜂蜜と遠雷」は、そんな計算に基づいた恐ろしい小説ではないかとも思えるのです。

 

チョコレートコスモス (角川文庫)

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