桜田五輪相と「いだてん」の連続がっかり発言から考える新しいオリンピック出場方法

およそ100年余という時の差はあるものの、オリンピック関係者が、オリンピック候補選手に対して、「がっかり」という同じオノマトペを発する出来事に出会いました。
 
 
ひとつは、
大河ドラマいだてん」での大日本体育協会役員・嘉納治五郎の「がっかり」
 
 
 
役所広司扮する東京高等師範学校校長であり大日本体育協会役員の嘉納治五郎は、マラソン選手選考会で世界記録を出した金栗四三に、スウェーデンストックホルム大会に出場してくれ、と要請します。
 
しかし時は1911年、日本はそれまでオリンピックに参加したことがなく、金栗四三自身もオリンピックがなんたるかわからない状況。
 
しかも、
「負けたら切腹ですか?」
「勝てないと期待してくれる国民が許してくれんでしょ」
「行きとうなかです」と出場を拒否。
これに対し嘉納治五郎は、思わず叫んでしまうのです。
 
「がっかりだ!」「全くがっかりだ!」「もうがっかりだ!」と3連続がっかりを。

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「いだてん」のこの回のオンエアは2月10日。
その2日後の2月12日、競泳の池江璃花子選手が白血病を公表したのに対し、桜田五輪相が「がっかり」と発言し、(一部で)批判を浴びました。
 
 
正確にいうと「いだてん」の「がっかり」はドラマのなかでのセリフなので、たまたまオンエアのタイミングが同時期だった、というだけです。
それでも連続して出くわしたオリンピック関係者のがっかりに、びっくり。
 
 
 
桜田大臣のがっかり発言は、その後発言の切り取りだの作為的な報道だのとの声も上がっていて、発言全文を見ると、たしかになぁ〜という部分もあるけれど、それでも言葉の選び方や気遣いのなさが垣間見られるところもあって、思うにやはり「思想は態度に表れる」ってこういうことか、と感じました。
 
 
 
エッセイスト・コラムニストで上原隆さんという人がいます。
苦難に直面した一般の人に取材したノンフィクションコラムを多く書いています。
 
その上原隆さんの「こころが折れそうになったとき」という著書のなかに<方法としての現場>というコラムがあります。
 
 
 
上原さんが映像制作会社で働いていたときの話です。女性社員のひとりが企画書づくりに追われていて、このままだと締切には間に合いそうにもない。
みんなで協力しあい完成させようとなった。
 
上原さんは自分よりも若い社員(部下)に声をかけます。
「いっしょに手伝ってくれないか」
 
部下自身も多くの仕事を抱えていたため「オレも手一杯なんです」「ダメ」と顔をしかめた。
 
それでも「協力がないと間に合わない」と頼むと、彼はしぶしぶ答えます。
 
「しょーがねーなー」と。
 
 
この一連の態度に上原さんはムッとした。
非協力だったからではなく、年下の部下のその返事の仕方に腹が立った。
上原さんは日頃、序列的な人間関係は良くないと思っていた。
上下関係を押しつけていろいろ気を使うのは非効率だと考えていた。
そんな考えを持っているのに、なぜいま友だちのような言葉使いをされてカチンと来たのだろう。と考えた。
 
 
 
以下、引用を。
 
その人のいっていることや書いていることとは別に、行動や仕種や反応、つまり態度があり、おうおうにして日頃の発言と実際の態度が違っていることがある。その場合、態度に表れたものこそがその人の思想なのだ。たとえば、男女平等を主張していた学者が、家に帰ると服を脱ぎっぱなしにして、妻に片づけをさせているとしたら、彼の思想は男女平等ではない。
私の場合、序列的な人間関係は良くない、嫌いだと言っていたのに、体の中に序列的な人間関係が組み込まれていて、年下の人の発言に不快感を抱いた。つまり、序列を肯定している思想の持ち主だった。
思想は態度に表れる。
態度は「肉体の反射」でもある。
 

 

引用、ここまで。
 
 
 
桜田大臣の発言のなかにあった「がっかり」もおそらくそれで、日頃の思想がつい口をついて出てしまった、という気がします。
 
 
それは桜田大臣一人の問題だけではなく、五輪関係者の一部(偉い人・声の大きい人・体面を重んじる人たち)の間で
日頃から、
 
オールジャパンとして盛り上がること
日本の(日本人の)優位性を世界に示すこと
失敗をしないこと
そしてメダルをより多く獲ること。
 
などが合言葉となっていて、そういう人たちのなかに思想として染み付いちゃってしまっているからではないかと。
 
 
 
五輪を成功させねば使命を担う<えらいさん>たちのところへ、池江璃花子選手のニュースが飛び込んできた。
 
18才高校生の体を心配する声ももちろんあったでしょうがそれは小さな声で、大きな声の持ち主たちの口からまず飛び出したのは、
「これからどうなっちゃうんだ」
「出れるのか?出られないのか?」
「メダルの計算が狂うぞ」であったかもしれず、
 
そして
「うわぁ、がっかりだ」
であったと、想像します。
 
 
 
 
「がっかり」に似たオノマトペに「がっくり」というのがあります。
このふたつはなにが違うのか。
 
 
今から10年ほど前オノマトペにハマって深く勉強したことがあって、
「擬音語・擬態語辞典」なる分厚い辞書や関連の書物を読み込んでいました。
今回ふたつの「がっかり」に出会い、久しぶりに取り出して調べてみました。
 
 
 
「がっかり」も「がっくり」も同じ落胆を表すオノマトペです。
 
 
「がっかり」は、予想や期待がはずれて落胆する時。様子。精神状態そのものを示す場合が多いです。
 
「がっくり」は、同じ落胆でも動作を示す場合が多く、がっくり肩を下ろすとかで使います。
 
同じ落胆でも不思議と私たちはこのふたつを使い分けています。
 
 
あの時「がっくり」ではなく「がっかり」であったのは、その背景に期待値の高さがあったからでしょう。
 
その期待も池江璃花子というアスリートの可能性への期待よりも、
メダル数という期待。計算上の期待。成功で終わらせるためのツールのひとつとしての期待。
 
そういった日頃の、アスリートへ寄せる思いの本音部分が「がっかり」に集約されて表れてしまったのでしょう。
 
 
 
「がっかり」にはまた、どこか序列的な匂いも漂っています。
 
上の者が下の者に期待を寄せ、その期待に応えるのが当然なのに叶わなかったときのコトバのような気がします。
 
なんだできなかったのか。
情けない。
〜するのが当然なのに。
 
思うようにならなかった失望のニュアンスさえも感じます。
 
 
 
 
「いだてん」での嘉納治五郎の「がっかり」は、まさにそれです。
 
世界を狙えるチャンスなんだ。
日本人初というチャンスを逃すな。
日本人とて世界に通用するんだと見せつけろ。
オリンピックに出場できるのは名誉なことだ。
 
 
それなのにそれなのになぜ君は行かないという、「がっかり」
 
 
 
 
自ら「がっかりした」と言うのならばいい。
でも、誰かに対して「がっかりした」というのは注意しなくていけない。
期待はずれ。失望。裏切り。残念。という本心が隠れているから。
 
 
 
あのとき会見で「がっかり」ではなく、「一報を聞いてがっくりしました」の発言だったなら、また少し印象は変わったのかもしれません。
 
 
 
 
 
開催が近づくにつれ、メディアもイベントも東京という街の風貌もどんどんとオリンピックモードへと進み、盛り上がっていくことでしょう。
同時に期待も高まっていきます。
 
楽しみです。楽しみですが、そうした期待が高いぶん期待はずれのショックは大きくなります。
期待されていたのに結果がともなわず終わってしまうアスリートも多くいるでしょう。
そういう時、当事者でも関係者でもない無責任な我々は、「あ〜がっかり」なんてつい口ずさんでしまいそうです。
 
 
まあでも、アスリートに直接届かない一般市民の勝手で無責任な「がっかり」は、酒の肴なんだと、許してください。
 
 
 
でも、関係者の「がっかり」は禁物です。
 
メダル獲得、だけでなく、競技以前の、競技以外の生活・健康・品行・態度など、あらゆる点で期待に応えなければ「がっかり」と軽く言ってしまう人が関係者にいる、ということは悲劇です。
そういう人たちが思い描く「期待」に応えられなければ、簡単に「がっかり」と言われてしまうということが実証されました。
 
だから関係者の皆様、メディアの皆様、なにかあっても「がっかり」だけは言わないようにしましょう。
がっかり禁止。です。
 
 
 
 
 
 
2月10日オンエアの「いだてん」では、一度オリンピック出場を拒否した金栗四三が、その後「行きます」と出場を決意しました。
 
でもその時、大日本体育協会には支弁する渡航費と滞在費がなかった。
 
「行きます」といわれたものの、さて嘉納治五郎は困った。
そこで金栗四三に提案します。
 
「どうだろう、渡航費と滞在費を君が出す、というのは」
「協会が支弁するということが君は負担になっていたのでは」
「君自身の金でストックホルムで思う存分戦ってくれば、勝とうが負けようが切腹だの頭を悩ませることはない」
「背負うものはなにもない」

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実際に当時嘉納治五郎金栗四三にこういう提案をしたのかどうかは知りません。
史実に基づいているのか、それとも宮藤官九郎の創作なのか知りません。
 
 
でも、このセリフを「期待」というキーワードと照らし合わせて改めて聞くと、妙に説得力を感じてしまいます。
 
 
 
 
昔いつだったかのオリンピックの時、
競泳の千葉すずさんは「オリンピックは楽しむつもりで出た」「楽しんで泳いできた」とか発言して、大バッシングを浴びましたね。
国民の税金で行くのになんだ!とか。
 
 
 
 
 
 
2020年は東京での開催。
東京に住んでいるアスリートは自宅から通うのかな?
 
もしそうならば渡航費とか滞在費いらないよな。
もちろん、練習、準備、設備、スタッフなどなどでかなりの費用は必要で、国やスポンサーからの援助がなければ厳しいのだろうけど、
「自宅から通いまーす」
「自費で出場しまーす」なんていうアスリートが出てきたらおもしろいだろうな。
 
選考基準を満たしていたら、自費出場もOKなの?
オリンピックって自腹での出場は認められない、って決まりはあるの?
 
 
 
背負うものを一切なくして、ただ国籍日本!というだけで戦うアスリートが出てきたら、なにかが変わるきっかけになりそうな、そんな気も。
 

 

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