その「半分こ」にあきれるか、おもしろがれるか。内藤ルネの「半分」におどろく

もう過ぎてしまいましたが7月6日はサラダ記念日でした。
 
俵万智さんの短歌というのは、基本シンプルな言葉を使っているゆえ、一読で素直に感じ入ることができます。
 
 
例えば、
 
「寒いね」と話しかければ「寒いね」と答える人のいるあたたかさ
 
 
大きければいよいよ豊かなる気分東急ハンズの買物袋
 
 
ゆきずりの人に貰いしゆでたまご子よ忘れるなそのゆでたまご
(震災のあと子どもが誰かにゆでたまごをもらったというエピソードから)
 
 
親子という言葉見るとき子ではなく親の側なる自分に気づく

 

 
これらは31文字そのままがストレートに響いてきますね。
ではこれらは?
 
優等生と呼ばれて長き年月をかっとばしたき一球がくる
 
 
十代のココロたとえば夏をゲと呼ばねばならぬ夏至はキライダ
 
 
青春という字を書いて横線の多いことのみなぜか気になる
 
 
『勝ち負けの問題じゃない』と諭されぬ問題じゃないなら勝たせてほしい
 
 
 

 

そのまま読もうと思えば簡単にできますが、
よーく読むと、
どうしようもないやりきれなさ納得いかなさ、
輝いたままでいられない虚しさ、
思い通りにいかないことへの悔しさなどが潜んでいたりして、実に深いです。
 
圧縮された31文字の解凍具合によって思わぬ感情が現れてきたりするから、短歌はおもしろい。
 
 
でもって、俵さんの息子のコトバもさすがです。
 

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「前」というけど、その「前」とはいったい誰にとっての「前」なんだ?!
 
 
 

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いつも頑張っている「箸」よ、どうかお休みください、という優しさ。
 
 

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何様?と問われてその答えはなにも間違ってはいない。
 
 
 
 
こういうセンスは知識が増えるにつれどんどん矯正され常識的になっていきます。
 
 
でも大人になっても、「まんま」「Keep」「Stay」な人もいます。
 
 
 
 
 
50年代から80年代にかけて活躍したイラストレーターで内藤ルネという人がいます。
岡崎出身で「Kawaii」文化の先駆けみたいな人です。
ゲイであることをカミングアウトもしています。
 
 
その内藤ルネの自伝(「内藤ルネ自伝 すべてを失くして」)のなかに
「半分」に関する彼のエピソードがあります。
 
 
「『これ、先に半分いただいちゃった』と彼(内藤ルネ)が言った後の食べ物を見ると驚く。親子丼なら上の具がなく、たれで色のついたご飯がそっくり残っている。にぎり寿司なら”白いおにぎり”〜ネタだけ摂っていくからだ〜が、列になって並んでいる。それでも本人の意識としてはあくまでも『半分』らしい。」
 

 

 
 
ああ、彼にとってはこれも<半分>なんだ。
公平とか均等とかそんな配慮は一切なし。
基準は自分。
 
自分が欲しい部分を手に入れて、
残ったものが<半分>という考え方。
 
おもしろい。
うらやましい。
 
おもしろい、うらやましい。
けど、
 
おもしろいと言っていられるのは
身近にはいないから?
 
うらやましいと言ってしまうのは
自分にはない発想だから?
 
 
身近にこういう人がいたらどうだろう。
 
悪気はないし自然な行いだし、
 
だけど
厄介と思うか。
 
だから
寛容に笑い飛ばせるか。
 
 
おもしろいから受け入れるのか、
 
受け入れていることを示すために受け入れるのか。
 
 
どういう態度をとるのかで
社会から試されているような気もしてしまう。
 
 
 
とかなんとかのもやもやを31文字に圧縮した短歌はあるのかなと探したら
近いのはこれでした。
 
 

非凡なる人のごとくにふるまへる後(のち)のさびしさは何にかたぐへむ

 

 

 

サラダ記念日 (河出文庫―BUNGEI Collection)

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内藤ルネ自伝 すべてを失くして―転落のあとに

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新編 啄木歌集 (岩波文庫 緑54-1)

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短歌をよむ (岩波新書)

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