「情の時代」とは「現象の時代」〜あいちトリエンナーレ順不同ランキング

すったもんだはありましたが、今回のあいちトリエンナーレは非常におもしろかった。
 
 
にしても映像展示が多かった。いつもなら(いままでのトリエンナーレや他の芸術祭)の場合、映像展示は最後まで見るのが辛いってことが多かった。
 
でもどうしてだろう、今回は結構最後まで見てしまった、見ざるを得ない作品が多かった気がします。
 
いま思えば、この時代だからこそのテーマ、「情の時代」への期待が大きかったからのような気がします。
 
 
世界のアーチストたちは、このテーマをどう切り取り、どう描いているのかを知りたくてけっこう真剣に観てしまったのかな、と思う。
 
 
 
以下、順不同ランキングです。
 
 
レニエール・レイバ・ノボ「革命は抽象である」
展示再開後は観ることができてなく、新聞紙に覆われた姿しか知らない。
でもその姿もまた強烈な印象を残す。

f:id:ume_tubu:20191028193751j:plain

 
 
 
【dividual.Inc「ラストワーズ/タイプトレース」】
あいトリ最終日前日、作者であるドミニク・チェンのラーニングに参加しました。
驚きました。
この作品が生まれる以前の遥か彼方に、ドミニク・チェンの頭のなかでどれだけの思考の積み重ねがあったんだと。この作品は彼の実験でもあったんだ。

f:id:ume_tubu:20191028193608j:plain

 
 
 
【袁廣鳴(ユェン・グァンミン)「日常演習」】
シンプルな作品だけど、シンプルな作品だからこそ、観ている間、頭のなかはぐるぐる思考が巡る。
「すごいCGだな」と呟きながら途中で出ていくそこのおっさんたち、最後まで見ろよ。あなたの日常は誰かの非日常で、誰かの日常はあなたの非日常でもあるんだよ。

f:id:ume_tubu:20191028193659j:plain

 
 
 
【タニア・ブルゲラ「10150051」からの「キャンディス・ブレイツ「Love Story」】
悲しいから泣くのか泣くから悲しいのか。
情報によって感情が動かされるのか感情が動くから情報に触れようとするのか。
「情の時代」を的確に表現している作品だった。

f:id:ume_tubu:20191028194055j:plain

f:id:ume_tubu:20191028194112j:plain

 
 
 
【藤井光「無情」&毒山凡太朗「君之代」
意図せずリンクしあう2作品。
日本語の歌を歌っているのは、経験者の老人たち。
日本人になりきるための行動をしているのは、未経験の若者たち。
両作品を見た鑑賞者の頭のなかでは、70年という時が意図せず行き来きしあう。

f:id:ume_tubu:20191028194147j:plain

 
 
 
葛字路(グゥ・ユルー)「葛字路」
日本でもかつて<標識勝手に設置事件>があったらしく、その犯人の多くが罰金をだまし取る警察官だったと言います。

f:id:ume_tubu:20191028194212j:plain

 
 
 
キュンチョメ「声枯れるまで」
3人それぞれの最後の叫びの圧が凄まじすぎて、ビーズクッションにぐいぐいと体が沈み込んでいってしまった。

f:id:ume_tubu:20191028194330j:plain

 
 
 
【加藤翼「2679」&カタリーナ・ズィディエーラー「Shoum」
むかしのお笑い番組で、ゴムロープで手足が拘束された芸人が懸命にラーメンを食べようとするが、ゴムに引っ張られ丼がひっくり返り「アチチチチ」となるのがあった。
 
歌われている言語がわからない国の人が音だけ聞いて自国の言語に置き換えて笑い合うのが、タモリさんと安齋肇さんの「空耳アワー
 
ふたつの作品を見て、ひょっとしてアートとお笑いって紙一重?って。
そこにメッセージがあるかないか、だけなのか?

f:id:ume_tubu:20191028194418j:plain

f:id:ume_tubu:20191028194427j:plain

f:id:ume_tubu:20191028194445j:plain

 
 
 
Chim↑Pom「気合い100連発」】
再開後、矛先がこの作品も向いてしまいました。たしかに誤解はされやすいかも。
でも、最後まで観ていたら泣けてきた。
人には矛盾や二面性や背離などがあるから、だから、だからこそ、文学や映画や演劇があるんだよ、と。

f:id:ume_tubu:20191028194546j:plain

 
 
 
【ウーゴ・ロンディーネ「孤独のボキャブラリー」】
初見ではなんも心動かされなかったが、展示再開となって観ることができた「平和の少女像」に触れて、「孤独」というテーマを掲げるこの作品を対比的に考えてしまった。
 
少女は2ヶ月間ずっと誰も訪れることのない暗い部屋の中、ひとり「孤独」にで座っていた。
で一方、「孤独」と称されていた45体のピエロたちは、毎日多くのお客さんに囲まれ、一緒に写真を撮られていたりしていた。

f:id:ume_tubu:20191028194632j:plain

 
 
 
【表現の不自由展・その後「平和の少女像」】
再開後、抽選が当選し鑑賞できました。
 
少女像を前にしたとき、なぜか姿勢は低くなり、目線をあわせてしまった。
そして、隣りの空いた椅子に座り、その横顔を眺めた。見つめた。声をかけたくなってしまった。
 
この感情はなんだろ?
けっして作品そのものの力によって心動かされているんじゃない。
 
 
2ヶ月の間、鍵のかかった暗い部屋に一人ぽつんと置き去りにされてしまっていたんだね、という状況に心動かされている。
この上の【ウーゴ・ロンディーネ「孤独のボキャブラリー」】で書いた「孤独」ってやつだ。
 
おそらく展示が中止にならず通常展示の状態で少女像に出会っても、なにかを感じることはなかったと思う。
 
 
少女像を前にした時、なぜか、なぜだか、ひょいと頭のなかに浮かんできてしまった歌の一節がある。
 
♪〜けんかをやめて ふたりをとめて〜♪
♪〜わたしのために 争わないで もうこれ以上〜♪

f:id:ume_tubu:20191028194706j:plain

 
 
 
ホー・ツーニェン「旅館アポリア
昭和41年『戦争が廊下の奥に立ってゐた』という俳句を詠んで治安維持法で逮捕されてしまった渡辺白泉という俳人がいた。
その80年後の2019年夏、毎日新聞の投稿短歌で選ばれたのがこれ。
戦争が廊下の奥に座ってて名古屋市長が撤去させてた
渡辺白泉の本歌取りです。
 
豊田の喜楽亭という場所で観ることがとても重要だった大傑作。

f:id:ume_tubu:20191028194759j:plain

 
 
 
【ReFreedomAICHI# YOurFreedomプロジェクト「表現の不自由展・扉前のカード】
【モニカ・メイヤー「The Clothesline」】
ただの貼り紙がどうしてアートなの?と首をかしげる人がいる。
でもこれが一番シンプルなソーシャリーエンゲイジドアートなわけで、アートにはこういう分野もある、ということに想いを寄せられない人とは永遠に理解し合えない。

f:id:ume_tubu:20191028193850j:plain

f:id:ume_tubu:20191028193904j:plain

f:id:ume_tubu:20191028194014j:plain

f:id:ume_tubu:20191028193946j:plain

f:id:ume_tubu:20191110231336j:plain

f:id:ume_tubu:20191110231436j:plain

f:id:ume_tubu:20191110231505j:plain

f:id:ume_tubu:20191110231545j:plain

f:id:ume_tubu:20191110231600j:plain





 
さて、
【「表現の不自由展・その後」】ですが、その他の作品があまりにもすばらしい反面、ちょっと残念でならない。
気持ちはわかる。気持ちはわかるが、伝え方が間違ってないかい?的な印象を受けました。
話題にはなったけれど、単純に作品の質、という点でどうも手放しで賛辞を送れないのです。
 
 
「時代(とき)の肖像ー絶滅危惧種」は、どう見ても雑だなぁ、の感想しかない。
 
「遠近を抱えて」も、昔よくあった8ミリや16ミリ自主映画を思い起こさせるイメージ先行の冗長さが見ていて辛く、時代遅れ感が否めない。
 
そして天皇陛下のコラージュ作品を燃やして足で踏みつける行為。
私がこの映像を観たとき、ちょうど作者の大浦さんが会場を訪れていて簡単な作品解説をしてくれた。
コラージュは日本人である自己の投影だというが、それを理解させるには作品の力が弱い気がして、単純にそのシーンは気持ちよくなかった。
 
 
これら、過去展示中止になった作品に触れて「なぜ?」を考える、その狙いは面白いのですが、個別の作品の力不足を感じてしまいました。
 
今回のあいちトリエンナーレで、「表現の不自由展・その後」は必要だったのかどうか。
 
なかったほうが全体の評価は高まっただろうけれど、あったから話題や注目されたという点もあって、そうなるとどうしても展示や作品構成や手続きでのその不完全さが残念に思えて仕方がありません。
 
 
しかしこの展示、2019年というタイミングがいい意味でも悪い意味でもハマりすぎでした。
 
なんたって今年は、
元号を最も意識した年で、
同時に即位にみられるように天皇を最も意識した年で、
そして東京オリンピックを控えて、ある人達が目指す「日本のあるべき姿」像なるものが明に暗にあきらかになった年で、
さらには
今年から来年にかけて<日本の美を体現する我が国の文化芸術の振興を図り、その多様かつ普遍的な魅力を発信するための>【日本博】が全国で行われる年でもあったから。
 
それに加え、お隣の国とのここ最近の厄介な関係性。
そういったタイミングで「あれ」をぶち込まれてしまったら、そりゃあ揉めるわな。
 
 
 
 
 
 
 あいちトリエンナーレ2019。
いまこうして印象に残っている作品を振り返ると、結果的に、すったもんだの部分も含め、すべてにおいて「情の時代」というテーマが色濃く反映された作品ばかりでした。
まさにこの現代に生きているアートたちばかり。
 
 
 
自分の日常と密接に関わっているにしろいないにしろ、ここ最近の現実はどうも息苦しい。
特にSNSを眺めていると、差別、偏見、格差、ヘイト、多様性、同調圧力、フェイク、不寛容、隠蔽、捏造、改竄、生きづらさ、孤独など、様々な叫びがぽんぽん飛び込んでくる。
 
しかもそれらに対しての反応が、優しさとはほど遠く、いったい他者への寛容さはどこ行ってしまったんだと辛くなる。
 
 
あいちトリエンナーレの多くの作品は、「情の時代」というテーマのもと、そんな現実への「問い」を投げかけてくれていた。
 
 
「情報」というと固定化された事実に近いものだと思っていたら、その「情報」さえも送り手の「感情」ひとつでAにもBにもなって、それを受け取った人もまた、それぞれの感情でCにもDにも変わり、どんどんと本質とは離れた「あらたな情報」となって独り歩きをしていく。
 
 
「情報」のソースの場所も一次情報からではなく、リツイートされたツイートなどSNSや誰か権威ある人・人気ある人の発言となっていき、もうそうなるとそれは<本質>とは真逆の<現象>で、切り取りだとか意図が違うとか主張しても、もう手遅れ。
 
 
 
「情の時代」、すなわちそれは「現象の時代」
 
見た目の派手さ、歯切れだけの良くて中身のなさ、上っ面の語り、本音を隠した綺麗事…現象ばかりが跋扈している。
 
 
<現象>の反対語は、それは<本質>