「下北沢ダイハード」を名古屋でやるのなら
下北沢で起きた人生最悪の一日を描いた「下北沢ダイハード」
毎回小劇場劇作家が脚本を書いているということで楽しみに観ている。
なんじゃこれ!とオモシロイのもあれば、見事に外れまくりスベリまくりの回もありで、それはほれ、「テレビ東京ダイハード」って感じです。
しかし東京というところは地方人を洗脳させる街ですね。
下北沢も亀有も高円寺も赤羽も、なんとなく「独特の色」ってのが浮かんできてしまいます。どこも行ったことないけどそこを歩けばデジャヴュに頭がくらくらきそうです。
さて、名古屋に「色」はあるか?
「下北沢ダイハード」のようなドラマを名古屋でやるとしたらいったいどこなのか?
となると、やはり、あそこしかないでしょう。
結婚する28歳まで生まれ育った、なにもかも闇の彼方に吸い込んでいく限りなく黒に近いあの一帯です。
ビックカメラ、名鉄ニューグランドホテルのある名古屋駅西口からシネマスコーレを抜けてさらにずっと西に向かうと、そこには怪しげなアーケードがぱっくり口を開けて出迎えてくれます。
駅西銀座通り。
「あそこにはひとりで行っちゃダメ」と、昭和の子どもに夜中のトイレのように恐れられていた、別名「駅裏」です。
駅裏を離れ、ン十年。さすがに今の駅裏は、その闇にいくつか明るい色がついてきたらしいですが、記憶のなかの駅裏はいつどんなときでも闇です。
昭和のあの頃、駅裏の少年たちは、それぞれ小さな懐中電灯を握りしめ、闇に呑み込まれないよう必死で足元を照らし続けていたような気がします。
まだ「中東の某国」の名で呼ばれていた歓楽施設。
通学路のあちらこちらにそれはあり、夏の夕方には店先で水撒きをするビキニ姿のお姉様方がいました。
「ボクたち」が通りかかると、お姉様方は山なりにしたホースの水でミストを作り、「シャワー!」と叫んで振りかけてくれました。さすがにホースの扱いがうまいもんです。
集団登校の時間に遅れた下級生を家に呼びにいき呼び鈴を鳴らすと、玄関の奥から現れるのは、その子のお父さんでもお母さんでもお祖父さんでもない人でした。
五分刈りの頭に、胸元を大きく開けたシャツを着たそのお兄さん(おじさん)は、こう言うのです。
「おう、ぼっちゃんか。今呼ぶから待っとりや」と。
夏にはそのお兄さん(おじさん)はランニングシャツ姿で現れます。ランニングシャツの白と入れ墨のコントラストは見事です。
でも、入れ墨は珍しくはありません。
内風呂のなかった我が家では銭湯によく行きました。そこで入れ墨は見慣れたものとなっていたからです。ただ父親から小声で「じろじろ見るな」とは言われました。
大学時代、コンパだの飲み会だので遅くなった帰り道、駅西銀座通りを歩く場合には、ストーカー恐怖に怯えるお嬢様のように細心の注意が必要です。
薄暗い電柱の陰からお婆さんが音もなく忍び寄ってくるからです。
お婆さんはタバコの吸いすぎで嗄れた声でつぶやくのです。
「おにいさん、若い娘いるよ」
ちょっとお婆さん、お婆さんより若い娘っていくつ?
駅裏を離れてン十年。いま駅西銀座通りがどうなっているかは知らない。
かなり明るく発展的になっていることでしょう。
でも私のなかの駅西銀座通りはいまだ駅裏のままです。
ホルマリン瓶をいっぱい店頭に並べてマムシを売っている店がいまもあるとは思えない。
無雑作に停められた自転車の荷台には、もう猿はいないでしょう。
(知らずに通りかかった時、猿に手を引っかかれた痛いトラウマあります)
酒焼けしたシワだらけのオヤジたちがたむろしていた立ち呑み屋はまだあるかもしれない。
なぜか土俵があった母校・小学校はとっくに合併でなくなってしまった。
子どもには直接的な関わりはなかったけれど、あの頃駅裏で生きていた大人たちは、毎日がダイハードだったんじゃないだろうかと思う。
「駅裏ダイハード」
名古屋でやるならここしかない。