瀬古利彦さんのように芸術と触れ合いたい。〜スイッチインタビュー達人達「横尾忠則×瀬古利彦」

いやぁ〜おもしろかった。スイッチインタビュー横尾忠則×瀬古利彦
ラソンランナーとしての瀬古さんしか知らなかったけれど、瀬古さんってあういう人なんだ。
あういうってどういう人?っていうと、世界的なアーチストであり年上でもある横尾忠則氏にたいしても遠慮の欠片もなく思ったことをずけずけと聞けちゃう気持ちのいい人。
 
 
絵の具を投げつけたような絵を見て「僕にもできそう。僕がやったら芸術には見えないけれど、先生がやると芸術になっちゃう」と。おいおい。

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ストレートに「この絵、How much?」と(ホントはみんなも知りたいこと)聞いちゃう。おいおい。

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女性の横にドクロが描かれた絵について「どうしてドクロなの?意味ないの?じゃあ僕に分かるわけないや」と投げ捨てて。おいおい。

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そうした瀬古さんの言葉に、横尾さんも、
「難しいなぁ〜瀬古さんの質問は難しい。美術関係者の質問はさほど難しくない、答えやすいのに」とまんざらでもなく思わず失笑。

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この横尾さんの思わず出てしまった感想はけっこう本質的で、見ていたこちらも同じく失笑。
 
「絵の具投げただけ」「いくら」「なんだ意味ないの」なんて質問や感想は、美術関係者からはけっして出てこない言葉だから。
 
美術関係者は、芸術にはなんらかの意味があるもの!という前提でおそらく尋ねたりしているだろうし、意味を見つけ出せなくても勝手に高尚な意味付けを施しちゃうところもあったりして。
だから美術評論や画集の寄稿文なんか、なに言っている?的な文章や単語や表現に満ちあふれていて何回読んでも頭に入ってこない。わからん奴は芸術に触れるなという脅しのような匂いさえ感じてしまいます。
 
 
 
芸術っての厄介です。
芸術を語るとき(わかってもわからなくても)知識や感性や教養をフル動員します。
むりやりボキャブラリーをひねり出してそれらしいことを述べてその場をやり過ごすかもしくは、
「何日ぐらいかかったの」「素材はなに」「作るの大変だったでしょ」とか当たり障りのない感想で逃げ切ります。
 
芸術を前にすると瀬古さんのように素直になれない、
 
 
そんな芸術とやらの無形の圧力に屈しそうになるとき、岡本太郎の「今日の芸術」と「日本の伝統」の2冊を読むとホッとします。
岡本太郎の言葉は、小難しいいわゆる先入観や権威に惑わされている芸術に対する見方をくるっとひっくり返してくれます。
 
今日の芸術―時代を創造するものは誰か (光文社知恵の森文庫)

今日の芸術―時代を創造するものは誰か (光文社知恵の森文庫)

 
日本の伝統 (知恵の森文庫)

日本の伝統 (知恵の森文庫)

 

 

岡本太郎は宣言しています。
 
【今日の芸術は、
うまくあってはいけない。
きれいであってはいけない。
ここちよくあってはいけない。】

 

 
この宣言の真逆の「うまい」「きれい」「ここちよい」という基準はとてもわかりやすく、多くの人が簡単に評価できてしまう。いわゆる美術の教科書に載っているような「名作」の多くがそうで、そういったものが美術だと教えられてきたからです。
 
だから岡本太郎は(日本の美術教育への皮肉も含め)逆説的に、その価値基準は本当にあなた自身の価値基準ですか?と、問いかけています。
 
 
芸術とは「うまく」「きれいで」「ここちよい」ものであると思いこんでいるとき、その基準から外れた常識外の作品に出会ってしまうと、途端に理解が及ばなくなり「よくわからん」となってしまいます。
 
 
自分もここ5年ほど、アートイベントに関わりいろいろな作品と接してきました。
正直「よくわからん」という作品に出会うことも何度かありました。
でも「よくわからん」となっても、なぜだかすぐにその場から離れられず立ち止まらざるを得ないことがあります。
頭のてっぺんから下半身に向かってなにかがぞわぞわと蠢き足の先から這い出して床にガチッと爪を立てて動けなくさせてしまうような圧倒感のある作品に。
多分それは未知なるもの。新しいもの。
 
【芸術は創造です。だから新しいということは、芸術における至上命令であり、絶対条件です】
 
 
 
子どもが描く絵はめちゃくちゃおもしろいのに、他人と比較されたり比較したり、採点されたりするにつれてだんだんとフツーの絵に変わっていってしまいます。
 
岡本太郎は書いています。
 
【子どもの絵にはいきいきとした自由感はあるけれど、われわれの全生活、全存在を揺さぶり動かさない。なぜか?
子どもの自由は、獲得した自由ではない。許された自由。許されているあいだだけの自由。だから力はない。ほほえましく、楽しくても、無内容だと。】

 

反面、
 
【芸術家の作品のなかにある爆発する自由感は、心身の全エネルギーをもって社会と対決し、戦いによって獲得するもの。
すぐれた芸術に触れるとき、魂を根底からひっくりかえすような、強烈な、根源的驚異。その瞬間から世界が一変してしまうような圧倒的な力はそこからきていると。】

 

 
 
「今日の芸術」と「日本の伝統」を読み返すと、岡本太郎という人は、子どものような許される自由と、自ら獲得した自由の、ふたつの自由を持っていた人なんだなと痛感します。
 
 
「今日の芸術」は60年以上前の1954年にはじめて出版された本です。
復刻文庫版の序文は横尾忠則が書いています。
序文で横尾忠則ピカソの言葉を引用しています。
 
【「一枚の傑作を描くよりも、その画家が何者であるかということが重要である」】
 
そして
 
【「岡本太郎は何者であるか」
太郎さんほどピカソの言葉がぴったりの芸術家は日本にそういないのである。】

 

 
と締めくくっています。
 
 
 
 
のんべんだらりと生きている自分は、戦ってまで獲得したい自由はなく、絵画や彫刻や空間づくりのような、いわゆる「芸術的想像」はできそうにないけれど、これからは作品を観るとき、そこにあるのは、獲得した自由から生まれた表現なのか、それとも「うまい」「きれい」「ここちよく」あればいいとして作られた作品なのか、は意識して接しようと思います。
どちらがいいとか悪いとか、好きとか嫌いとかではけっしてないけれど、その場合の価値基準は「その作者は何者であるか」という、作品ではない「作者」のような気がします。

 

アホになる修行 横尾忠則言葉集

アホになる修行 横尾忠則言葉集