人に見られることから逃げていては成長できない。とはわかっていても逃げてしまうのが大半か

仕事上のミスや不甲斐なさを、何千人何万人に、いや、時にはテレビ中継を通じてそれ以上の人たちにさらけ出さなくてはならないって、どんな気分なんだろう。
 
ほら、プロスポーツ選手の話です。
 
あの人たちの仕事場は広くオープンで、勤務の様子を見てもらうことで対価を得ているわけですから、それはそれは勤務成績に対する世間の目は厳しい。
 
 
 
スポーツてのは闘うのが仕事。
しかも勝ってこそ誉めてもらえるし評価が得られます。
 
ところが悲しいことに、多くのスポーツの現場では負ける方が圧倒的です。
拮抗した戦いの末、あと一歩が足らず辛酸をなめる敗北ならば、「よし!次頑張れ」「今度こそ雪辱だ」と応援の後押しがあるから次につながり査定にもそれほど響きません。
 
 
問題なのは、勝敗に関係ない失敗の場合。
「芝に足を取られ転んだ。パスを奪われた。ああ、シュートまで持って行かれた」とか
「ワンアウトも取れずピッチャー交代」とか
「第3走者から第4走者へ!あっ、落とした!バトンを落とした」などのミスや失敗やドジは、つらいだろうな。
 
 
スタジアムやパブリックビューイングからは増幅されたため息が降り注ぎ、それはもうここ何年も大掃除さえしていない薄汚れた窓際で何万人から一斉に肩を叩かれ引き際を暗示されている気分となります。
 
 
地元のヒーローも故郷に錦を飾るどころか、にしきのあきらのポスターさえ飾ってもらえません。
 
 
 
スポーツ選手はよく試合のVTRを見直し、どこが良かった悪かったをチェックし、次につなげていくといいます。
自分の姿を映像を通して客観的に俯瞰的に見て、再び同じようなミスを繰り返さないようにしています。
成長のために、重要で不可欠なトレーニングのひとつなんでしょう。
さすがプロ。
 
 
 
といいますが、スポーツ以外のプロは客観的俯瞰的見直しってどうしている?
 
演出という仕事をしている私の仕事場のひとつ、それが撮影現場。
 
 
役者やタレントなどのヒト、商品や風景などのモノといった撮影対象に対峙する私の周囲でも、多くの見つめる目を感じます。
照明や音声スタッフからは、あれだけ時間かけて準備したのに、なんだ撮影はワンテイクでOKかよ、という物足りなさそうなまなざし。
 
若手制作からは自分だったらこうするのにという反面教師的なまなざし。
 
 
 
さらに背後からの目が特に厳しい。
プロデューサや広告代理店の営業や制作の、さらには腕を組むクライアントからは、「さてさてこいつはどんな演出するのかい」「ウチの商品キレイに撮れよ」「おいおいそんなにこだわって撮っても使うの1秒でしょ」と値踏み混じりの視線につつかれまくっています。
 
 
でも、見られてけなされ誉められ協力しあい意見を交わし合いテーマを見失わないよう時に冷静に立ち止まりつつ理不尽な要求にも
「なるほど、おっしゃる通り」
と深く頷き空気を読みながらストックから見合うアウトプットを試み様子を伺い
「今度のクライアントはここまでOKなんだ」と探りやりすぎず抑えず自分を適度に出してそれでいて客観的になることを毎回繰り返している。(フゥここまで一息)
 
 
 
時には力及ばずスタメン落ちやベンチにさえ入れないこともあります。それはそれで仕方ありません。
予選を勝ち抜いてきた主力メンバーがそのままワールドカップ本大会に出場できるとは限らないように、引き際のタイミングや若手の台頭といったファクターはどこにだってあるのですから。
 
そうした悔しさや不甲斐なさがあるからこそ、客観的に「今」を改めて知ることができると言い聞かせましょう。
自分の力を過剰に評価し、背伸びする恐ろしさを知らず、なんだってできると信じていた時期をとっくに過ぎ去ってしまったからこそ、できることだってあるのです。
 
 
 
朝ドラの個人的ベスト1「カーネーション」での名言。
コシノ3姉妹の母親が晩年こう言っています。
 
 
「年とるっちゅうことはな、奇跡を見せる資格がつくっちゅうことなんや。例えば、若い子らが元気に走り回ってたかて、なんもビックリせえへんけど、100才が走り回ってたら、こら、ほんだけで奇跡やろ」
 

 

 

ぼくらが愛した「カーネーション」

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