それはホントに偶然か?「偶然仕掛け人」に仕掛られたい
会うべくして会う運命の出会いというのがあって、
運命というからには必然のような気がするけど、
出会いそのものは偶然にすぎなく、
それを運命とか必然に引き寄せるのは
やはり本人次第ということになってしまう。
これは恋とか愛とかに限るだけじゃなくって、
例えば音楽とか詩とか、
本人自身はまだ気づいていない才能が開花するときの
偶然のきっかけのようなものは、
たまたまの人のひと言であったり、
たまたま見たドキュメンタリーでの
生き方だったりするかもしれない。
そんな出会い以外でも、
自暴自棄になって
今日ですべてを終わらせようと思い悩んでいる人が
たまたまふらっと立ち寄った展覧会で
「やっぱもう一日がんばってみよう」
と思える芸術に出会うことだってあるかもしれない。
コトバとか芸術とか、そんな作用の可能性あるものまでいかなくとも、
案外と、
手荷物の重みを命綱にして通過電車を見送っている(枡野浩一)鉄道で自殺するにも改札を通る切符の代金は要る(山田航)
これら短歌にあるように、
たまたま手にしていた手荷物や
販売機で買った切符、
も小さく人生に影響を与えているのかもしれない。
この小説の主人公
「偶然仕掛け人」の仕事は、
人の運命を決定することではなく、
可能性をつくり、
ヒントを与え、
心をそそる方向を示し、
選択肢を見つけること、だという。
そして、
世界にはふたつのタイプの人間がいる。あらゆる選択はなにかを得るチャンスだと思う人間と、あらゆる選択はあきらめだとみなす人間だ。(中略)あらゆる選択には必然的に別のなにかをあきらめることが伴い、自分がなにかを強く求めるかによって、その犠牲を払うための勇気が必要となる。なぜなら、つねに正しい選択をすることは不可能だからだ。幸福な人々は人生を見て選択の連続を見いだす。不幸な人々は犠牲の連続しか見えない。
とも言っている。
毎日は選択の連続で過ぎていって
その選択の結果は
自由意志に基づく必然だ、
と思っていても、
実は偶然に満ちあふれている。
例えば、
同じ時間の同じ電車に乗っていても
隣り合わす人は
毎日偶然の隣人で、
もしかするとその隣人は
「偶然仕掛け人」が自分への仕掛けた
偶然の隣人かもしれず、
そう想像してみると、
その後の行動は少し楽しくなってくる。
世界にはふたつのタイプの人間がいる。あらゆる選択はなにかを得るチャンスだと思う人間と、あらゆる選択はあきらめだとみなす人間だ。
自分はこのふたつのタイプのどちらだろう。
当然、というか気持ちとしては
前者でありたい。
前者であるための心がけをしているつもりでも、
ときおり
「チッ」と舌打ちしてしまうこともあって、
ああ、ひょっとしてその後あったかもしれない
幸福ってやつを逃していたかもと、後悔する。
「偶然仕掛け人」は、
境界の運命の側で火花を発し、
境界の自由意志側にいるだれかが
その火花を見てなにかをしようと決断するのを見守る。
らしい。
これからはその火花に気づけるようになりたい。