ジョージ・オーウェル「1984年」がフィクションに思えなくなってきた<桜>をめぐるヤバい日本

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はじめてこの小説を読んだのはいつだったか、高校だったか大学生に入った頃だったか。
どちらにせよ毎日が楽しければそれでいいと能天気に遊び呆けていた時期だったことは確かで、だからこの小説の内容もピンとこなかった。
ありえない世界を描いた圧倒的フィクションだと距離を置いて読んでいた。
 
 
それからン十年後の2017年、トランプ大統領就任直後のアメリAmazonで、この本が1位になったというニュースを聞きました。
ニュースでは、トランプ大統領の出現が、この小説のなかに登場する独裁者ビッグブラザーを想起させたのでないかと、ベストセラーの要因を分析していた。
 
 
 
1984年」
1949年に発表されたジョージ・オーウェルの小説です。
一九八四年[新訳版] (ハヤカワepi文庫)

一九八四年[新訳版] (ハヤカワepi文庫)

 

 

Amaon1位のニュースを聞いて、もう一度読み返してみようかな、と一瞬思いはしたものの、アメリカの話だしなぁ、今さら独裁っていってもなぁ、と結局「1984年」は本棚の定位置に収まったままでした。
 
 
それから2年が過ぎた今年、2019年の夏、突然「1984年」の出番がやってきました。再読です。
 
 
 
きっかけは、あいちトリエンナーレ
 
検閲や展示中止や助成金不交付が直接の引き金ではありません。
 
あいちトリエンナーレで展示されたいくつかの作品を観て、いろいろと考えていると、頭の中に様々なキーワードがぽんぽん浮かんでは消えていきました。
 
 
自由と不自由・監視・検閲・独裁・不都合な真実・隠蔽・改ざん・歴史修正・同調圧力・なかったものにする等々。
 
おやおや、これって「1984年」のテーマと共通する部分、多いんじゃないか。
 
そう、だから今のうちに読んでおけよ、と本棚の奥から「1984年」が手招きされました。
 
 
 
あいちトリエンナーレが閉幕し、再読した「1984年」の記憶が少し薄れかけた今、冬の寒気(かんき)とは別の寒気(さむけ)に襲われています。
 
 
今のうちに読んでおけよ、ってこういうことか。
 
 
独裁、とまではいかないまでも<嘘と隠蔽と改ざんとなかったことにする>にまみれた日本の状況がおそろしい。
 
不都合な真実を覆い隠して自分たちを正当化する、まさに「1984年」に至るスタートラインのような予感が漂っています。
 
 
 
 
1984年」の世界は、ビッグブラザーという指導者が独裁で支配している世界。
 
街にも家庭にもテレスクーンという双方向テレビが設置してあり、いつどんな時も日常が監視されている。
 
 
ビッグブラザー不都合な真実や歴史は次々と書き換えられている。
存在する文献や記録や新聞がビッグブラザーの党の主張と異なる場合は改ざんされ、元あった記録は廃棄され、なかったものとされてしまう。
改ざん・修正が当たり前の1984年。
 
 
記録が書き換えられようとも記憶は残る。その記憶も二重思考という形で内面さえも支配されている。
 
事実だと思っていたAという事実は実はなかったなかったと記憶が消される。忘れさせてしまう。
そして新たに党に都合の良いBという記憶が植え付けられていく。
 
 
 
 
さらには、言葉の意味さえも限定する。
1984年」には、ニュースピーク(New Speak)という概念があります。
従来の標準英語オールドスピーク(Old Speak)に対するニュースピークです。
 
ニュースピークは、支配している党・国家にとって必要のない、本来その言葉が持っていた意味を減らしていく、というものです。
 
 
例えば、
ニュースピークにおけるフリー(Free)の意味は「自由な」「免れた」という言い方においてのみ使用できる。
その用法はこの<犬はシラミから自由である><シラミから免れている>という意味でのフリー。フリーという言葉は、その言い方にしか該当しない。
 
そうであるから、政治的に自由、知的に自由、といったオールドスピークにあった意味でフリーという言葉を使うことができない。
 
つまり、政治的自由という概念はそもそもない!存在しない!のであって、意味そのものがないから、政治的に自由になりたい、知的に自由になりたいという気持ちさえ持つことができない。持とうという意識さえ生まれない。
 
語数が減らされ、意味が限定され、そうすることで党や国家にためにならない、不必要な言葉そのものがない世界を描いている。
 
まさに、あいちトリエンナーレのテーマ「Taming〜飼いならす・支配下に置く」の世界。
 
 
 
考えてみれば、思考というものは言葉と密接な関係があって、言葉がなければ主張も批判もできない。
国家にとって邪魔な言葉や意味は元から淘汰してしまえ、の世界なのだ。
 
ニュースピークが浸透すると、たまたまオールドスピークで書かれた過去の文献や記録が発見されても、そこに書かれている言葉の意味と、現在使用されている言葉の意味(ニュースピーク)とでは解釈が異なり、もしくは意味が限定されているので、文献や記録の正確な読み取りができない。だから簡単に改ざんできてしまうという世界というのだ。
 
 
 
 
言葉の持つ意味をなくしてしまえば、その言葉を使って思考することもできない。
 
批判に該当する意味や言葉をなくしてしまえば、批判さえもできない。
 
不都合な事実そのものを改ざん修正してしまえば、不都合さそのもの自体存在していなかったことになるので、なにも困ることはない。
 
 
 
1984年」で描かれているこれらを、もっと低次元で行っているのがここ最近のあれやこれ。
 
 
「廃棄したと聞いている」
「復元できないと聞いている」
「コメントは差し控える」
「個別のことには答えられない」
「適切であったと認識している」
「承知してないので答えられない」
「結果的に入っていた」
「あったことはあるが面識ない」
「それには当たらない」
「詳細は承知していない」
「問題ない」
 
 
なんと虚しい言葉の数々。ほとんどが嘘だと誰もがわかっている。それでも嘘を突き通す。嘘を突き通せば、証拠そのものがないのだから、嘘だと立証できない。
 
 
1984年」はフィクションです。こんな極端な世界が訪れるはずはないと信じているから小説として楽しむことができます。
 
でも、フィクションとは思えない現実がいま目の前で展開されています。
いったいこれらやり取りが子どもたちにどんな影響を及ぼすのか、そんな想像に至らないのだろうか。
小さな嘘と改ざんの積み重ねの先にあるのが、いつしか大きな「1984年」でないことを願います。