登場人物もストーリーも起きる事件もすでに十分すぎるほど知っているはずなのに、この小説はいつ読んでも一文だって一行だって読み飛ばすことができない。
ああ、ホントにこの小説が好きだ。
でき得ることならば、228ページあるすべての文章を暗記して、電車の待ち時間や靴ひもを結んでいる時やカップヌードルの3分間など隙間時間のことあるごとに思い出してにんまりしてみたい。
「TUGUMIつぐみ」の語り手は、大学生の白河まりあ。
まりあの従姉妹のつぐみ一家が経営する海辺の旅館で過ごすひと夏の物語で、そう、ただそれだけの小説。
その旅館が閉館することが決まり、最後の夏を過ごすためまりあは旅館を訪ねます。
まりあと従姉妹のつぐみの再会シーンがこれです。
「おーい、ただめし食いのブスが着いたぞ」と開け放した正面玄関にむかってつぐみが叫んだとたん、色が戻ってきた。
つぐみは幼い頃から病弱で入退院を繰り返してきた。甘やかされて育ったため粗野で口が悪い。
色が戻ってきた。の色とは、
毎年訪れていた旅館の匂いや潮の香りや旅館特有の慌ただしさだけでなく、相変わらず乱暴でわがままで口が悪いつぐみの色も含んでいます。
さあ、ここから読者も一気につぐみの色に染まっていきます。
そのキャラクターの描き方がこれまた見事で、粗野で乱暴な中にかなり深い洞察力が含まれていて、おそらく身近にいたら気になって仕方がないとも思えます。
例えば、つぐみはこんな考えを持っています。
つぐみの家で飼っている犬(ポチ)について。
つぐみはポチは好きだ、でもそれを素直に表さない。それでも毎晩ポチを(仕方なくを装って)散歩に連れ出している。
まりあはそんなつぐみに言う。
「つぐみ、すっかりポチとうちとけたのね」(それに対してつぐみは)「冗談じゃねえ。最悪だ。まるで処女の情にほだされてうっかり結婚しちまった女殺しのような気分だ」「自分が犬と仲良くしちゃってるなんてぞっとする。客観的に見るとかなり気持ちが悪いことだ」(でも、つぐみはポチが好きなのだ。)「いやな奴には、いやな奴なりの哲学があるんだ。それに反してる」「犬にだけ心を許すいやな奴なんて、単純すぎる」(つぐみはさらに続ける)「たとえば、地球にききんが来るとするだろ?食うもんがなくなった時、あたしは平気でポチを殺して食えるような奴になりたい。もちろん、あとでそっと泣いたり、みんなのためにありがとう、ごめんねと墓を作ってやったり、骨のひとかけらをペンダントにしてずっと持ってたり、そんな半端な奴のことじゃなくて、できることなら後悔も、良心の呵責もなく、本当に平然として『ポチはうまかった』と言って笑えるような奴になりたい。」「いつもまわりにどこかなじめないし、自分でも何だかわかんない自分をとめられず、どこへ行きつくのかもわかんない。それでもきっと正しいのがいいな」
(と語るつぐみを、まりあはこう描写する)
ナルシシズム、でもない。美学、とも少しちがう。つぐみの心のなかには磨きぬかれた鏡があって、そこにうつるものしかつぐみは信じない。考えようともしない。そういうことなのだ。
また別のシーンで、つぐみにこんなセリフを言わせている。
「あたしは、最後の一葉をいらいらしてむしりとっちまうような奴だけど、その美しさはおぼえてるよ」
そんなつぐみは恋をする。
夏の日に出会った恋人・恭一について、つぐみにこう語らせている。
「うーん……今まであったことのようにも思えるし、かつてなかったとも言える。あのね、今までってさ、何がどうなっても、相手が目の前で泣きわめいてても、どんなに好きな奴が手を握らせろとかさわらせろとか言ってもさ、何かこう…ほとり、って感じだったんだね。対岸の火事を暗い川辺で見てるのさ。いつ火がおさまるかまで見えちまって、眠りそうに退屈だった。そういうのは、きちんと終わっちまうからね。恋愛に何を求めてるんだろうと思ったよ、この年で」「だけど、今度は参加してるって感じがしてる。犬のせいかもしれないし、自分がひっこしちまうせいかもしれない。でも、恭一はちがうんだ。何べん会ってもあきないし、顔を見てると手に持ってるソフトクリームをぐりぐりってなすりつけてやりたくなるくらい、好きなんだ」
つぐみのセリフやひと夏の出来事の描写以外のなんでもないシーンもとてもいい。
物語の語り部、白川まりあが東京の街角で仕事途中の父を見かけるシーンがあります。
父は家では見せない外の顔をしていた。
そのあとの文章。
誰ひとり、本当は心の底に眠るはずのどろどろした感情を見せないように無意識に努力している。人生は演技だ、と私は思った。意味は全く同じでも、幻想という言葉よりも私にとって近い感じがした。その夕方、雑踏の中でのそれはめくるめく実感の瞬間だった。ひとりの人間はあらゆる段階の心を、あらゆる良きものや汚いものの混沌を抱えて、自分ひとりでその重みを支えて生きてゆくのだ。まわりにいる好きな人達になるべく親切にしたいと願いながら、ひとりで。
奇をてらったような表現や言い回しだってない。それそれの一文も短く、シンプルだ。
でも、人物の顔が浮かんでくる。海辺の町の、夏の空気が漂ってくる。夜の堤防、砂浜の包み込むような孤独と永遠が見えてくる。
物干し台で闇を眺めながらつぐみとまりあが飲むジュースの甘さが香ってくる。
愛おしい傑作です。