狩りに出かけた二人の紳士が獲物を得られず腹を空かせた帰り道、「山猫軒」という西洋料理店を見つけ何か食べようと入るが、<靴の泥を落としてください><鉄砲と弾丸を置いてください><帽子と外套を脱いでください><金属類を外してください><クリームを顔や手足に塗ってください>と次々と注文を出されていく、宮沢賢治の「注文の多い料理店」
おかしいな、と思いながらも、おそらく偉い人がきてるんだろうと勝手に納得して、次々と扉を開けて誘導されていく様子をこう例えている小説があります。
<いつの間にか、ファシズムに飲み込まれる民衆と同じじゃないか>
伊坂幸太郎は、ユーモアあふれる会話と構成の妙が好きで欠かさず読んでいる作家の一人です。
この「魔王」は、ユーモアのセンスは変わらずですが、扱うテーマがちょっと重い。
2005年に出版された「魔王」を、なぜか、なぜだか14年ぶりに読み返してみました。
「魔王」の主人公は不思議な能力を持っています。
自分が思った言葉を、念を送ることで他人の口から言わせることができる、腹話術のような能力です。
例えば、電車に乗り合わせた腰の曲がった老人に念を送り、目の前の座席で大股を広げてふんぞり返っている若者に向かい、こう言わせます。
「偉そうに座ってんじゃねえぞ、てめえは王様かっつうの。ばーか」と。
また、理不尽な要求をする課長に叱責され耐えている会社の先輩に念を送り、こう言わせます。
「偉そうにしてんじゃねえぞ。責任取らない上司の何が上司だ」と。
「魔王」には、カリスマ性を持った野党の政治家(犬養という名前)が出てきます。
犬養は出演したテレビでこう語ります。
「汚職や不祥事、選挙の敗北、それらの責任で辞任した首相はいるが、国の未来への道筋を誤った、と辞任した首相はいない。誰も誤ってはいないのか?未来への道筋はいつも正しいのか?国民はもう諦めているんだろう。特に若者は、顕著だ。(中略)政治家が必死に考えているのは、政治以外のことだと見限っているわけだ」
そして言う。
「私なら五年で立て直す。無理だったら、首をはねろ。そうすればいい、私が必死になるのは、政治のことだけだ」
こうした発言により犬養は、若者を中心に支持されはじめていきます。
その背景には、<他の政治家に比べればマシ>という恐るべき理屈で支持され、<支持されているうちやりたい放題>で十年を無駄にした、という過去の政治家たちの存在があり、もう誰が政治をやろうと世の中は変わらない、と虚無感に似た気持ちが蔓延しています。
主人公たちの居酒屋での会話でも、
「もう、曖昧なまま、誤魔化されるのは飽き飽きしちゃった」「曖昧なまま誤魔化す?」「だって、政治家なんて、自分たちの都合のいいことは勝手に決めちゃって、都合が悪いと『国民への説明が足りないから、様子を見ましょう』とか言っちゃうわけでしょ。(中略)もう、いっそのこと多数決じゃなくてもいいんじゃないの?わたしなんかさ、そう思っちゃうよ。誰か、びしっと決めてくれたら、ついてくからさ」
なんていうのがある。
「誰か、びしっと決めてくれたら」の<誰か>とは犬養じゃないかと、主人公はふと思ってしまう。
それに影響されて、主人公の友人は宮沢賢治を読みはじめる。
それは感情での批判・嫌悪だけでなく、行動としても、アメリカ発症のハンバーガーショップが燃やされたり、英語教師の家が燃やされたりなどへと拡大していくのです。
犬養という政治家の出現とその言動によって<空気>が動き、諦観と無責任の蔓延した今の世の中に、断定口調がとても心地よく感じられると、認めざるを得なくなっていく。
主人公はその感覚を、川の氾濫を抑えてきたダムが決壊する、と表現しています。
このままでいいのか。
決壊を防がなくていいのか。
どうやって?
自分は他人に自由に言葉を発せられる能力を持っている。
言葉の力で止めることはできないか。
言葉の力で加速する<空気>を止めることはできないか。
でもそんなことで、世界は変えられるのか?
そして、主人公は犬養の演説会場へと出向く。
までが「魔王」です。
犬養はどうなったか、というと、彼の党は躍進し、今や犬養は首相となっている。さらに憲法改正を進めようとしている。
いいですか、この本は2005年に出版された、14年ほど前の小説です。
ある町の住民投票の話です。
鶏卵が名産のある市で卵を持った鶏の像を作った。その名前を、市長はケイコと命名しようとした。鶏の子とかいてケイコ。でもそれは市長の孫娘と同じ名前だったから反対もあり、では住民投票で決めようとなった。そこで投票の対象となった名前には5つの候補があった。ケイコと、他の4つ。ケイコ支持派は当然「ケイコ」に投票する。ケイコ不支持派は、他の4つの名前それぞれに投票する。反対派は4つの分裂する。結果、4つを集めた投票数はケイコ派の票よりも多かったに関わらず、名前は「ケイコ」に決まってしまった。
さらにこんな会話もあります。
「この国の人間は、怒り続けたり、反対し続けるのが苦手なんだ」「初回は大騒ぎでも、二度目以降は興味なし、ってことだよ。消費税導入のときも、自衛隊のPKO派遣の時も、住基ネット開始も、海外での人質事件も、どんなものだって、最初はみんな、注目して、マスコミも騒ぐ。ただ、それが一度、通過すると二度目以降は途端に、トーンが下がる。飽きたとも、白けたともちがう。『もういいじゃないか、そのお祭りはすでにやったじゃないか』っていうさ、疲労感まじりの空気が漂うんだ」「だからさ、もし、俺が政治家だったら、最初は大きな改正はやらないんだ。(中略)大変な騒動になるだろうん。マスコミは連日、この件について論じるし、知った顔の学者が様々な意見を言う。そして、たぶん、憲法が変わる。大事なのはその後だ。時期を見計らって、さらに条文を変えるんだ。マスコミや一般の人間も、一回目ほどのお祭りは開催できない。抵抗も、怒りも、反対運動も持続できないからだ(以下略)」
選択肢を増やして反対派を分裂させ、思う方向へと結論を導こうとする。
小さな変化で一度お祭りを経験させ、落ち着いた頃に大きな変化をさらっと行う。
「魔王」にしろ「呼吸」にしろ小説ですからフィクションでエンタテインメントですから、そこに世界を変えられる方法が書かれてあるわけではありません。
不穏な空気が払拭されるわけでも、ヒーローが誕生するなど、結末にカタルシスはありません。
繰り返します。この本は2005年に出版された小説です。
出版された当時読んだ時、それほど印象深かったわけではなく、不思議な能力を持った男が出てくるお話、という記憶しか残っていません。
それなのに、なぜ、いま?読み返す気になったのか不思議です。
ここ最近の政治を巡る出来事にはうんざりします。
呆れるよりも怒り、危機感さえ感じます。
消費税が上がり、自然災害が多発し、改ざん・隠蔽・嘘がより一層明らかになり、不祥事の政治家たちが雲隠れし、屁理屈に包まれた答弁が跋扈したこの一年を、
いったいぜんたいどこを見ているのか「日本が世界の真ん中で一番輝いた年になった」と総理が口にする2019年令和元年に読み返してしまったことが不思議です。
なにかの導きか?とも思えてきます。
「魔王」「呼吸」も、どちらの主人公たちも、直接的に犬養という政治家と出会うことはありません。
政治の世界で起きかけている<空気>の漂いを、日常のなかで本能的に感じるフツーの人として描かれています。
ただ自分が持っている不思議な能力で<なんとかしよう>という意思だけは見せています。
悲しいことに、特殊能力があるなしに関わらず、現実では多くの人は動かない。
自分自身がそうです。
せいぜいこうしてブログに書き、批判や疑問のツィートをリツィートするだけです。
このままじゃヤバいぞ、早い内になんとかしないと日本はダメになるぞ、と感じながらも、野党や世間の追及を見守り、マスコミの潮目の変化に勢いづけられ、状況を忘れず見続けるしかありません。
なんたって、日常生活で、仕事の場でも政治の話をしない。出ない。
相手が何を支持しているかを伺いながら小出しに話題にしてみるが、なんとも無関心で、しかも起きていることについて多くを知らない。知ろうとしない。
自分の生活から遠い問題については誰も考えない。
それが一番怖いのかもしれない。
まさに「注文の多い料理店」に入り、自分が犠牲になっていくことを知らずに勝手に納得して注文に従っていく、そんなプロセスの途中にいるような気もしてくる。
それにしてこの小説のタイトル「魔王」とはなんだろう?
その内容は怖い。
熱の出た子どもを医者につれていくため、父親は子を馬に乗せ走らせる。
子どもは高熱のため幻聴に襲われる。
木々の音や枯れ葉の音が魔王の囁きに聞こえてくる。
子どもだけに聴こえる魔王の囁きは、こっちへおいで、と子を誘う。
父親には魔王の囁きは聴こえない。
「お父さん、お父さん、魔王の囁きが聞こえないの?見えないの?お父さん、お父さん、魔王が僕を掴んでくるよ」
子どもは必死に訴えるが、父親には聴こえない。
そして、最後、子どもは死んだ。
誰かに勧められたわけでもなく15年前の小説を、今、<なにか>に導かれるように読み返してしまった。
<なにか>とはなんだ?魔王の囁きか?