AI に無意識ってやつはあるのだろうか〜公衆トイレと「この世界の片隅で」でふと思う

駅の公衆トイレに入りました。小の方です。
定位置に付き、さて、と準備に入ると、右目の片隅に映る、隣の先客の体勢に違和感を感じました。
横を向きじっと見るのもなんですから、肩が凝ったなぁ的な感じで首を小さく回しながら、その違和感を盗み見しました。
 
 
 
 
とまではいかないにしろ、お隣さんの姿勢は、かなりの前傾姿勢。15度ぐらいの角度で上半身が前方に倒れています。
 

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小便器が設置してある壁には、スマホが置けるぐらいの、棚のような段差があります。
お隣さんはその段差にビジネスバッグを乗せているのですが、段差の幅よりもバッグのマチ幅のほうが広いので、ただ乗せておくだけでは不安定で倒れてきてしまいます。
 
そこでお隣さんは、前傾姿勢を取り、おでこでバッグを支え、倒れてこないように用を足していたのです。
両手が使えない現場ですから使えるものはおでこでも使え、です。
 
 
 
その光景に触れた瞬間、バシバシバシッとある映画のワンシーンが浮かんできてしまいました。
 
 
 
少女が渡し船に乗って荷物を運んでいます。岸壁に着き、風呂敷で包んだ荷物を背負い直します。
少女は地面に置いた荷物を、よいしょっとそのまま持ち上げ背負うのではなく、いったん壁に押し当て安定させてから背中をつけ、風呂敷を首のあたりで結びます。
 
少女の名前は、すず。
 
アニメ「この世界の片隅で」の冒頭シーンです。

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公衆トイレでのバッグおでこ支えシーンが、なぜか「この世界の片隅で」と結びついてしまった。
 
 
 
想像するに、
トイレのお隣さんは、以前幅狭の段差にバッグを置いて用を足していた時、バッグが突然倒れてきて、「うわ、やばい」と思わず手を差し出し支えたはいいが、急な片手での用足しとなってしまい、ズボンを濡らしたという経験があったのではと思われます。
 
それからはというもの、両手の役割は放出口の押さえ、おでこはバッグの押さえ、という習慣を生み出したのでしょう。
 
 
 
一方「この世界の片隅で」のすずも、最初は地面からよいしょっと荷物を背負っていたけれど、何度も繰り返すうちに体に負担のかからない、荷物の壁当てという習慣を編み出したのでしょう。
 
 
 
性別も年齢もシチュエーションもまったく異なるのに、人が無意識に生み出す特有の習慣という点で両者は結びついてしまったのです。
 
 
 
 
人は手がふさがっている時、思わぬ行動、というか本来そうじゃない部位に手の代わりをさせます。
 
例えば、
切符とかパーキングのチケットを口でくわえたりするし、
扉を開ける時、肩や背中で押し開けることがあります。
カップコーヒーとかも飲み口の端っこを歯でガシッと噛んで持ち歩くこともあります。
 
 
こういうのって誰かに教えられたわけでもないし、日頃からこうしようって心がけているわけでもないし、でも、咄嗟に、無意識に、してしまいます。
 
学習ってやつ?
 
 
で、
AIとかロボットって、学習を繰り返すとこういう無意識な習慣を行うようになっていくんだろうか。
 
目的と結果の最短距離を見出そうとする時、おでこでバッグを押さえるとか、重い荷物を壁に押し当てるとかの行動をするんだろうか。
 
こういうのってプログラミングで対応していく類のものなんだろうか。
 
 
 
 
AIが音楽や絵画など芸術を創ったり、なんてこともあるようですが、こういう無意識まで学習して創造していくようになっていくのかな。
 
 
<その人>が<その人>である由縁って、こうした無意識のなかに色濃くにじみ出てくるような気がするし、その姿になんとなく<らしさ>的なものを感じ取ったりして、親しんだり距離を置いたりもします。
特に芸術の分野では、<その人><らしさ>は欠かせません。
 
 
 
「この世界の片隅で」だって、別にすずにああいう荷物の背負い方をさせず、ひょいと持ち上げ背負わせたって物語には何の影響もありません。
 
でもただ、物語を観る人は、ああいうさりげないシーンに、想像するのです。
 
ああ、ずずはいつも家の手伝いで荷物を運んでいて、最初は地面から背負っていたが、これでは体に負担がかかると学習してあの背負い方を学んだんだなと。
 
そこにはすずの日常を想像させる、余地のような、行間のようなものを感じます。
 
また、そういうやり方を自ら見出す、すずの聡明さのようなキャラを垣間見させてくれます。
 
 
「この世界の片隅で」でのこのシーンは映画が始まってすぐ現れます。
 
冒頭すぐ、こういうシーンに触れると、一瞬にして「ああ、この映画は信用できる」と安心して物語世界に没入できたりもします。人間の想像力をくすぐってくれます。
 
 
 
人間がAIに勝てるところってそういうところなのかなと、公衆トイレでふと思いました。