華麗で優雅なスポーツといってまず思い浮かべてしまうのは、フィギュアスケート。
演技終了後のキス・アンド・クライで採点を待つアスリートの額や首筋に流れる汗も、塩分が一切混ざっていない蒸留水のようにきらびやかで、ぺろりとなめても甘そう。
そんな麗しのフィギュアスケーターも、ジャンプした瞬間をとらえた写真を見ると、すっごい顔してる。
【フィギュアスケート ジャンプした瞬間の顔】で画像検索すると驚く。閲覧禁止です。
でもこれがスポーツというもの。
最大にパワーを発揮する瞬間が必死であればあるほど結果が伴い、観る人は強く惹かれるのです。
自分はフィギュアスケートはできないな、と思う。
単純に才能やスケート技術の問題ではなく、ジャンプした瞬間の形相を多くの人に見られてしまうかと思うだけで、ぞっとするからです。
「なにこの顔」「白目剥いてる」「必死な顔してんじゃねえよ」
ああ、みんなに笑われてる。
そうなんです、自意識ってやつが異常に強いのです。
変顔、というのがあります。
自分からは積極的に変顔することはありませんが、変顔は「今から変顔しまーす」「これが変顔でーす」とやる人も見る人も変顔モードに切り替わっているからまだ大丈夫です。
一番苦手なのは、こっちは真剣なのに客観的に見られると「変」ってやつです。
笑わせるつもりもないのに笑われてしまうのが耐えられません。
度量を大きくもってこっちも「ハハハハ」と笑って済ませられればいいのでしょうが、それができないから悩んでます。
最悪「なに笑ってんだ!」と逆ギレしちゃう時もあったりして厄介な自意識ってやつを抱え込んでしまったとずっと悩んでます。
合唱ってありますよね。
合唱の人たちの、歌に酔いしれているあの恍惚の表情がイタイのです。
口を大きく開けて目を大きく見開いて自分の世界に浸る。もうたまりません。
たまりませんと同時に羨ましい。どうしてあれほど自分の世界に入り込んで他を寄せ付けないことができるんだろうかと。
斜に構えてせせら笑ってはいるけれど、自分も酔いしれたい!が本音なんです、実は。
今から10年ほど前の映画です。
主演は夏帆ちゃん(10年前で高校生役だったのでちゃん付けします)
夏帆ちゃんは高校の合唱部。自分の歌に酔いしれている合唱大好き少女です。
ある日、憧れの男子から、合唱で歌っている顔を写真に撮っていい?と言われます。
憧れの人ですからもちろんOK。
後日、夏帆ちゃんは出来上がった写真を見てショックを受けます。
それは大きく口を開け恍惚の表情で歌に酔いしれる自分の顔。まるで鮭の産卵のよう。
(この映画のもととなったシナリオの題名は「あたしが産卵する日」だったとか)
こんな顔して歌を歌っていたのか、チョー恥ずかしい。ダメ、人前でもう歌えない。
そうして歌うことに歓びを見いだせなく合唱から離れていくのです。
そんな時、合唱大会で知ったのが別の高校の男子合唱部。
ひと昔前のビーバップハイスクールのような長ラン学生服のヤンキー集団です。(ガレッジセールのゴリが部長を演じています)
彼らは魂の叫びのように尾崎豊を歌います。
夏帆ちゃんはその「歌」に感銘を受けます。
野蛮な歌い方なのにびしびしハートに伝わってくる。
こんなヤンキーな連中がすごい歌を歌ってる。
ゴリと夏帆ちゃんは出会います。
ゴリは、夏帆ちゃんにいいます。
「歌に大事なのはな、テクニカルなことじゃねぇ。一番大事なのはな、フルチンになることだ!」「オレたちはな、表現することにビビってるヤツにはぜんぜん負ける気がしねえ」
ここでゴリは夏帆ちゃんに問いただします。
<あんた、何かにビビってる><いったい、なににビビってるのか?>
夏帆ちゃんはその理由を答えます。
<好きな人に、歌ってる顔がヘンって言われたんだ>
<バカみたいって思うでしょ。でもね、大好きな人だったんだよ。その人に、歌ってる顔がヘンだからおもしろいって言われたんだよ。一生懸命口を開けて、きれいな声を届かせようとしたのに、そう言われちゃったんだ>
<それで、歌うのが怖くなっちゃたんだ>
ゴリは、俺の宝物といって、ポケットからプロ野球カードを取り出します。
それは清原和博のカード。打つ瞬間を捉えた写真。
ヘンな顔をしている。
「そうだ!ヘンな顔だ!でもよ、こんくらいやらねえと、力込めねぇと、魂出さないと勝負には勝てねえんだよ。そしてな、必死になってる顔に疑問を持つようなヤツは、一生ダッセえまんまだ」「立て!」「フルチンになって、おもいっきり声出せ!他人を気にしてるようじゃいいパフォーマンスはできねえ!」「叫んでみろ!アイアムフルチンって!」そして夏帆ちゃんは叫びます。「アイアムフルチン!!!!」
いままでフルチンになったことって…思い返すと、誕生の瞬間と、お風呂かセックスの時しかない。
なんてことはどうでもよくって、
フルチン=本気、とすると、いままで「本気の本気」になったことってあるだろうかと首を傾げてしまう。
数年間打ち込んだスポーツもないし、我を忘れてしまうほどの趣味もない。
お酒飲んでも終電の時間をずっと気にしているし、ライブにいってもいま時分はどんなふうに手を振ってるカラダ揺らしているを考えちゃう。
仕事も……自分は広告映像の仕事をしています。いわゆるカントクと呼ばれる職種です。
多くのカントクたちが目の前にシーンやカットにのめり込んでこだわって叫んで我を忘れて演出しているのに対し、自分の現場は極めて冷静です。
でものほほんと演出していては舐められることもあるから、時には「監督役」を演じてしまうことだってあります。
いかにも我を忘れて周りが見えなくなってのめり込んでいる(ふうな)ポーズを意識的に取ってしまうこともあります。
でもそんなときだって内心は冷静です。
<いまここに本気になって仕事に取り組んでいる自分がいる>と客観視は忘れません。
でもおそらく周りの人には見透かされてるんだろうな。そんな上っ面の姿が。
本気になれないのははっきりしています。
他人の目が気になるからです。
必死になっている姿を見せるのが(本当はカッコいいことであるのはわかってはいますが)逆にカッコ悪いと思ってしまうところが、どうしても自分にはあるようです。
どう見られているかどう思われているか笑われはしないか怒られはしないか嫌われはしないか。
そんな余計な考えがいつも頭の中をよぎり、無難で波風を立てない道を選んでしまう。
かといってなんでもかんでも言いなりになってしまうことは決してなく、営業的な部分を考慮せず<それはカッコ悪い><それはつまらない><そんなのしたくない>とついつい口走ってしまい、次から声がかからなくなってしまうこともあったりして。
どうやらそうやって主張することで自分の弱さを覆い隠しているところもあったりするから、これまた悩ましいことです。
フィギュアスケートや合唱の必死の顔を笑ってしまうのは、自分が笑われることを嫌いだからです。
必死な顔を臆することなくさらけ出して真剣に生きている人たちが、羨ましくてたまらないからです。
嫉妬に近い感情があるから、笑ったり、変だといってみたり、そうやって否定することで自分をなんとか保とうとしているところがあるのです。
映画そのものは決して深刻な内容なんかじゃなく、能天気で思いっきり笑って楽しめるものです。
映画の中の夏帆ちゃんは、最後には歌う歓びを再び見出して終わるのですが、実人生ではたった2時間でそこまでは変われません。
フルチン=本気
本気=さらけ出し
現実の世界でフルチンになったら新聞沙汰ですが、「本気」「さらけ出し」は他人に迷惑をかけない自分だけの問題。
誰にもお伺いの必要のない自分だけの問題にもかかわらずそれが叶わなかったのは、自分自身が一番の障害だったからです。
自分を乗り越えるのが、ホント難しい。