自分と向き合う時間が一番の恐怖〜アガサ・クリスティ「春にして君を離れ」

思いがけずできてしまった膨大なる時間。話し相手も読む本も(もちろんスマホも)ない。
その時間は、まぎれもないヒマ。
つぶす道具を一切持ち合わせていないときのヒマは、危険です。
思考のすべてが、一直線に、自分自身に向かってしまう、から。
 
 
 
アガサ・クリスティのミステリーじゃないほうの傑作、「春にして君を離れ(Absent in the spring)」

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主人公は初老のイギリス人女性ジョーン。
イラクはバクダッドに住む娘の病気見舞いをしたあと、陸路イギリスへと帰ろうとしますが、天候不順により列車が来なくなり、砂漠の駅で数日間足止めを食ってしまう。
 
いつ列車が動くかわからない、話し相手もいない、持参した本もすべて読み終えてしまった。
 
いま唯一向き合えるのは、自分自身だけ。
 
 
ジョーンは、これまでの夫婦関係、友人関係、親子関係を次々と思い浮かべていく。
それらは理想的で良好で最善な関係であったと、自信を持って思える。
 
しかし来ない列車を待ちながら、毎日毎日考えごとをくり返すうち、時間は残酷な仕打ちをジェーンに仕向けてくる。
 
 
 
本当に愛されていた?本当に慕ってくれていた?理想の母親だった?妻だった?
 
 
あのときの言葉、態度、表情…次々と立ち現れてくる新たな記憶。
 
 
時間はこれまで見えていなかった細部を浮かび上がらせ、気づかなかったものを気づかせてくる。
 
相手のためを思ってのあの言葉は、行動は、本当に相手のためだったのか。
自身の満足のためだったのでは。
もしかすると自分は、これまで自分が見たいものしか見てこなかったのでは。
 
 
 
 
「何日も何日も、自分のことを考えるほか、何もすることがなかったら、自分自身についてどんな新しい発見をするかしら?」

 

 
「自分自身についてこれまで知らなかったことなんてあるものかしら?」
 
 
などと語っていたジェーンは、膨大なる時間の作用により、<自分自身について知らなかったこと>を記憶の奥底から浮かび上がらせていく。
 
 
 
作中、近いうちにドイツが戦争を起こす、というやりとりがあることから舞台設定は1930年代終わりでしょう。
 
その時代、砂漠のど真ん中で足止めを食い、娯楽と情報から遮断されてしまったら、たしかに自分自身についてどんどんと考えが向かいそうです。
スマホやテレビに囲まれた今だったら、ここまで素っ裸になることはできません。
 
 
 
 
でも今年、
2020年の春から初夏、私たちの多くも足止めを食いました。
 
 
緊急事態宣言の解除もしくは感染収束という列車が来るまで、この小説の主人公のように自分自身について考えを巡らせてしまった人も多くいたことでしょう。私もそうです。
 
スマホがある、テレビだってある、本だって映画だって見たい時に見れる、ZOOMで友だちとつながれる…
そう、そうだけどそれらからすうっと解き放れた、空白の、自分ひとりの時間が、普段以上に、あった。
 
特にコロナ禍という未知で、先のわからない状況での「足止め」は、不気味で怖かった。
 
空白の時間は、自分のなかに隠れ潜んでいた<記憶>や<関係>という名のモンスターを起こしてしまった。
 
 
 
あのときのひと言…
あのときの一瞬の間…
あのときの表情…眼差し…
 
相手を思っての言動も、自己の満足のためのものであったと見透かされていたのかと。
 
 
時間は、自省と自己嫌悪を引き連れて背中にのしかかってくる。うう、重い。
 
 
 
 
 
「春にして君を離れ」のラストはどうだったか?
ジェーンの夫・ロドニーが、妻にかけた言葉は、一見優しげで、しかし実は残酷。
ただその残酷に、ジェーンは気づかない。
気づかない、気づかせないがゆえに、ジェーンは幸せなのかもしれない。
 
 
 
 
だから、コロナ禍のもと、自分自身と向き合い、これまで気づいていなかったものに気づかされたかもしれないことの答え合わせは、あえてしないほうがいい、そう思う。