「おちょやん」と「ブックカフェ」に感じる、信用の居場所

偉そうなことを書きますが、ちょっとした、ほんのちょっとしたことで、ああこの人、この場所、この物語信用できるな、と思うことがあります。
 
最近の、そんなを、ふたつほど。
 
 
 
新しく始まった朝ドラ「おちょやん」
 
第2週のラストにこんなシーンがありました。
貧しい家に生まれ育った主人公の千代は、口減らしのため大阪は道頓堀の芝居小屋に奉公に出されます。
 
ある日、奉公先で頼まれたおつかいで失敗をしてしまった千代は、奉公先から、「もう面倒みれない出てけ!帰れ!」と追い出されます。
 
ひとり、奉公先を出る千代。
しかし、もうすでに千代の実家は夜逃げをしていて、帰る家がない。
 
 
じゃあ千代はいったいどこへ行ったんだ。
 
外は雨。
「おーい千代」と皆が探し回るがどこにもいない。
手分けして探すが見つからない。
 
 
 
でもひとり、奉公先の女将の母には心当たりがある。
 
女将の母は、ぼろぼろの服を着た男たちに案内され、ある場所にやって来る。
そこはお寺の門。
 
千代はそこで柱に持たれ、やはり雨宿りをしていた。
 
女将の母は、ぼろぼろの男たち(乞食というセリフあり)にお金を渡し、「あったかいもんでも食べて」といいます。

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芝居小屋を代々営んできた裕福な人と(今の時代ならば排除の対象となってしまっている)人との一過性ではない、深く長い交流をそこに垣間見ることができました。
このシーンひとつで、この先「おちょやん」を見続けようと思いました。
 
 
「おちょやん」の舞台は大正の終わり。
身分の違いが今よりももっと顕著だった時代だろうけれど、だけども、かっきりと線を引くわけでもなく、互いの領域をほどよく行き来し合う共存があったんだろうな、と想像できます。
 
 
それに比べて今の時代は…なんてことをいいたいわけではありません。
 
単なるドラマ、フィクションだから、行方不明になった少女を見つけ出す方法はいくらだって考えつきます。ひねり出すことが出来ます。
でも、このような形で描き出してくれたことに「信用」を感じるのです。
 
 
令和時代の作り手たちが日々の出来事に感じている疑問や不信や嘆きのようなものをさり気なく忍ばせてくれたことに、小さなメッセージのようなものを感じ、信用するのです。
 
 
 
 
もうひとつは、現実の体験を。
 
 
先日、名古屋・新栄にあるブックカフェに行きました。
ノンフィクションが好きだというオーナーセレクトの本に囲まれ、静かな時間を味わいました。
 
このブックカフェは今年の7月にオープンしたばかりです。
本を楽しむ、ドリンクを味わう、静かに語り合う…そんなコンセプトを大切にと、店内は落ち着いた色調で統一されています。オーナーのこだわりを感じる、ステキな空間です。
 
 
 
「信用」は細部にありました。
 
 
 
オーナーとちょっとした会話を交わしたあと、トイレに入りました。
本が並ぶ書棚の奥、右と左に分かれ、ふたつ、トイレがあります。
 
 
左の扉には「WOMEN」のサインが。
となると、自分は右か、と右の扉を見ると、そこにはこんなサインが表示されていました。
 
 
 
 
「ALL GENDER」
 
 
 
 
トイレサインなんて、これまでだったらシンプルに「WOMEN」「MEN」でかまいません。
でもこのブックカフェには「ALL GENDER」が。
 
最終的にこのサインを選んだオーナーの、日頃の考えや問題意識や店としての在り方を想像すると、そこには「信用」という感情が自然と浮かんできました。
 
 
 
 
その人に、その場所に、その物語に信用を感じるかどうかは、わかりやすい大きな言葉や態度じゃないってことを、最近つくづく感じています。
 
 
 
 
いくら言葉で「〜のため」と言っていても、「みなさんこんにちは、ガースーです」などと場違いな発言をする人は、信用から一番遠いところにいるのです。