「夜になったら賢い医師生活のみんなに逢える」と、毎日を豊かにしてくれた「賢い医師生活」というまったく新しいドラマについて

韓国ドラマ「愛の不時着」にハマった小説家の井上荒野さんは、
日中、「夜になったら愛の不時着が観られる、夜 になったら愛の不時着、夜になったら不時着......」と、目の前に人参をぶら下げられた馬 のような気持ちで仕事をしている。と、あるエッセイで書いていた。(「ベストエッセイ2021」所収)
わかる。わかりすぎるほどわかる。私自身もそうだった。いや、今でもそう。
 
2021年は、「愛の不時着」からはじまり、「梨泰院クラス」「秘密の森」「マイ・ディア・ミスター〜わたしのおじさん」「恋愛体質〜30歳になれば大丈夫」「イカゲーム」などなど、韓国ドラマに浸りきっていた一年でした。
 
 
そして10月、「賢い医師生活」シーズン1シーズン2を見終えました。
 
「賢い医師生活」も、毎日の糧であったことは間違いないのですが、
他の韓国ドラマとは、接する距離感がちょっと異なるような気がしています。
 
「愛の不時着」や「梨泰院クラス」などは、純粋にドラマ・物語として楽しくおもしろかった。視聴者として客観的に夢中になっていた。
 
 
ところが「賢い医師生活」は、視聴者という立場で楽しむ、というのに加え、
ドラマの舞台であるユルジェ病院で、登場人物らとともに同じ時間を過ごしている、
そんな近しい距離感をずっと感じていました。
 
同じ医師仲間でもなく、患者でもなく、もっと客観的なポジションで、
例えるなら病院内のあちらこちらに仕組まれた何台かの定点カメラから登場人物たちの人生を同時進行的に眺めている、そんな感じでしょうか。
 
 
だから「夜になったら賢い医師生活が観られる」ではなく、
 
「早く夜になって賢い医師生活のみんなに逢いたい」。
 
そんな感覚です。
 
ほんの1時間30分ほどだけど、5人と、その周辺の人たちに逢いにいき、物語の一員になる、そんな至福のドラマだったのです。
 
 
 
 
シーズン1&2の合わせて24話を見終わった今はそんな気分ですが、最初の1話2話あたりは、登場人物たちとはまだ近しい関係性は築かれていませんでした。
 
韓国名だからか、名前と顔がすんなりとは結びつかず、関係性もよく理解できず、
誰が何科の医師かもすぐには分からず、しかも手術シーンはマスクに帽子姿だから、
あれ今手術しているのは誰?状態で、なかなか入り込めなかった。
 
ところが3話あたりから、こんがらがっていた結び目がするすると解けはじめ、一気に「賢い医師生活」世界の一員としての毎日が始まってしまったのです。
 
 
 
 
「賢い医師生活」は、実に不思議なドラマです。
 
 
通常ドラマには物語を貫く大きな目標があります。早い段階でそれは(暗に、明に)示されます。
 
 
例えばそれは、
ここを抜け出す。
ここに戻ってくる。
恋が成就する。
恋が復活する。
誰かを助ける。
戦いに挑む。
勝利する。
トップに立つ。
旅立つ。
成長する。
変化する。
などなど。
 
 
多くの物語は、そんな目標が(暗に、明に)示され、その達成に向かって突き進む主人公の姿が描かれます。
 
途中、敵が現れ、障害や葛藤が行く手を阻みますが、それを助ける仲間やメンターが現れたりもします。
 
困難を乗り越え前進し、ゴールに向かっていく、そんな主人公らに、観客や視聴者は興奮し応援し、そして達成した姿に感動します。
 
 
 
ところがですね、そうしたドラマチックな要素が、「賢い医師生活」にはありません。
個々の小さな小さな目標や困難は、たしかに散りばめられてはいますが、それらはシーズン1&2全体を貫く強固なものではありません。
 
 
こんなふうに物語全体を貫く大きな目標が示されない(暗示させない)ドラマは、とてもめずらしい気がします。
 
 
さらに、「賢い医師生活」の主人公5人は成功者です。
医師としての地位も高く、すでに名声も得ています。
高級車に乗り、住む家も豪華で、生まれ育った家庭環境も裕福でお金には全く困っていません。
あしながおじさんという奉仕活動にも従事し、プライベートでは仲間でバンド活動を楽しみ、週末はキャンプをし、充実しています。
 
物心ともに豊かで優しく仲間思いで家族を大切にし後輩への思いやりを忘れず恋にときめき何をしていても緊急の連絡が入ればすぐに病院に戻り患者への対応に当たる。
主人公らに際立った欠点などなく完璧です。
 
 
誰もが羨むこんな人物たちの物語にだれが共感するんだ?!
鼻につくばかりじゃないか!
 
となるはずが、そんなことはまったくありません。
 
むしろ逆に、彼らの生き方に抱く感情は好感しかなく、こんないい奴ばかりの病院なんて奇跡だぁ、なんて思ってしまいます。
 
なんていい奴なんだ、はメインの5人だけじゃありません。5人の周辺で登場する人たちも、すべてが善人、愛すべき人物として造形されています。
 
しかも、登場人物たちの行動や行く手を邪魔をしたり、阻んだりする、いわゆる「悪人」も一切出てきません。
登場人物全員がいい人なんです。
 
 
 
いい人だけのドラマ。
ありがちなドラマチックな要素さえない。
 
こんなドラマ、あり得ない。となるはずが、しっかりとあり得てしまっているのが不思議で仕方ありません。
 
 
 
 
街の文化センターでシナリオを教えている先生方はきっと指摘するでしょう。
 
 
こんな完璧すぎる人物のどこが共感を得られるんだ!?
彼らの目標はなんだ?どこへ向かおうとしてるんだ?!
欠点をもたせなさい!
葛藤を作りなさい!
障害を与えなさい!
敵を登場させなさい!
 
いやでも先生、そんなのなくてもいいドラマがあるんですけど…。
 
 
 
 
 
「賢い医師生活」をだれかに薦めるのはとてもむずかしい。
キャッチーな誘い文句が見当たらない。
どこを、なにを語ればその魅力を伝えることになるのか、そのポイントがひと言では言い表せない。
もしかすると、とてつもなく新しい、これまでなかったドラマなのか「賢い医師生活」は。
いったいなにがこんなにも夢中にさせるのか。
 
 
 
 
医療ドラマだから、病気や生命が描かれます。これらは感動を作りやすい要素ではあります。ただその感動はとても丁寧に構築され、安易に提示されてはいません。
 
全24話のなかで多くの患者が登場してきます。何話かに渡って描かれる患者はほとんどいません。多くが1話ごとのなかで完結していきます。
 
それぞれのエピソードの描写に費やされる時間も、それほど多くはなく、深堀りもされていません。
しかしどのエピソードも印象に残るものばかりです。
 
 
おそらく現実の医師や患者への取材やリサーチが徹底して行われ、それらがドラマのなかに効果的に盛り込まれています。
 
この個々のエピソードの見せ方が憎いほどにうまい。
 
けっしてわかりやすいエピソードの提示の仕方ではなく、かなりシャッフルされた状態で並べられています。
途中途中異なる別のエピソードが並列して登場してきますので、わかりやすい起承転結という形で示されてはいません。
 
それでも、わたしたちはある瞬間に、個々のエピソードを頭のなかに蘇らせ、組み合わせ、ああそうか、あのときの会話、そのときの行動、あのときのアクションはこのためだったのか、と理解して、感動するのです。
この納得感の心地よいこと。
 
 
 
 
好きなエピソード(ネタバレなし)
シーズン1の第11話。
ユルジェ病院のベテラン看護師の娘の頭に腫瘍ができ、入院手術となります。
手術は無事成功し、退院まで入院中の娘はやたらスマホで病院の様子を撮影しています。
若い医師たちは自分が撮られているかとからかったり照れたりしている。
でも、彼女が撮影していたのはそれじゃない。
なにをどうして撮影していたかをわかるのは、物語のずっと先。
それがわかった瞬間は、涙が自然と溢れました。
 
 
 
 
シーズン1の最終12話
産婦人科の外来。
待ち時間が長く、廊下の待合では妊婦やその家族がいらいらして待っている。スタッフへのクレームも飛び交っている。
しかし、ある段階ですぅっと皆一斉に静かになる。
その理由と描き方はシンプルながら印象的です。
 
 
 
 
 
シーズン2の第1話
子どもを病院で亡くしてしまった母親が用もないのに何度も病棟を訪ねてくる。病院スタッフは、もしかして母親は子どもの死亡を病院の医療ミスを疑いその証拠を見つけるため何度も訪ねてくるのでは、と思う。
でも母親が何度も病院を訪ねる理由はそれではなかった。
理由を知り、それに対する病院スタッフの対応は感動です。
 
 
 
 
シーズン2の第2話
世界的に著名なバイオリストの腫瘍の手術が成功した。テレビ局が執刀医を取材したいと申し出てくる。
執刀医は取材日の変更を依頼するが、その日しか無理との返事。変更が無理でしたらお断りします。
そんな名誉なことなのにどうして断るの、と周りに問われ、その返事は…。
 
 
 
 
こうしたエピソードは本当に感動的で心温まります。創作もいくつかあるかと思いますが、おそらく実際にあったエピソードなんでしょう。
 
エピソード自体も感動的で素晴らしいのですが、それらの見せ方が、演出が悔しいほどに見事です。
1時間30分のドラマの中では断片のピースであって、最後にそれらが組み合わさったときの快感と感動は心地良さ以外の何物でもありません。まさに快感です。憎いのはただ心地よいだけでなく、涙という感情の露出も伴っているということです。
 
 
 
 
「賢い医師生活」は、従来のように起承転結がはっきりとしたわかりやすい構成ではけっしてありません。
 
特に、「必要」とは思えない小芝居、小エピソード、やりとり、インサートなんかの結構あって、こんなシーンなんかいるんだろうかとその瞬間思ってしまうのだけれども、でも、そんな小さなシーンがあることによって登場人物たちの、人物像や人間性がはっきりと浮かび上がってきます。
 
 
 
だから、ドラマを見る、というよりも「彼らに逢いにいく」、そんな感覚なんです。
 
 
 
一見わかりにくいかもしれない「賢い医師生活」のエピソードの構成は、逆に言えば、視聴者をかなり信頼してくれているということでもあります。
 
これではわかりにくかも知れないから、もう少しセリフを増やすか、暗示させるカットや表情を挿入しておくか、エピソードとエピソードの間の時間をもう少し短く(カットの構成順)しておくか、となりそうだけど、そうではありません。
視聴者の想像と創造と記憶と構成力をかなり信頼してくれています。
 
 
さらに、ハイここが感動するところですよ、とよくある安手の演出のひとつである、いかにもな音楽を当てることもなく、感動を安売りしていない。
だから、客観者としてではなく、「賢い医師生活」世界の一員としてごく自然に出来事として心震わされてしまうのです。
 
 
 
 
脚本家、監督は、どれだけの確信を持って制作に臨んだんだろう。
患者たちのエピソードを構築するためにどれほどの取材を重ねたんだろう。
登場人物たちの人生をシャッフルして構成することに不安はなかたんだろうか。
それらエピソードの見せ方は、脚本段階から、つまり机上でバラしてあったんだろうか。それとも編集段階でシャッフルしたんだろうか。
演じる役者のみんなは、断片的な演技に戸惑いはなかったのだろうか。
 
 
 
 
そんな制作のシーンを想像してみますが、私たちの現実社会を見てみると、現実は案外わかりやすくはできていません。
 
毎日会社で顔を合わせる人、定期的に時間を過ごす取引先の人、近所の集まりでしか会わない隣家の人、何らかのコミュニティでしか話をしない人。
彼らのことをすべてわかっているわけでも知っているわけでもない、
趣味や交友関係などよほどでない限り知らない
 
何度かあっているうちに段々と人となりが分かってきて、好きになったり、苦手になったり、嫌いになったり、尊敬が始まったり、いろいろと感情は変化します。
 
お互いの人生について、お互いにすべてと関わり合っているわけでもないし、断片的にしか知り得ていない。
自分と関係するすべての人物の、共に過ごしていない時間など知りようがない。
 
 
ドラマのように、ディレクターが編集して時間軸に沿って並べ、俯瞰させて見せてくるわけでもない。
そんなふうに現実の人間関係は、カオスで断片的で不確か。
 
「賢い医師生活」はそんな現実そのままを、映像化しているにすぎないのかもしれません。
虚構ではなく現実そのもの。
だから惹かれるのか。だからリアルに心に響いてくるのか。
 
 
 
いまのところシーズン2で終わってしまっていますが、「賢い医師生活」をドラマとしてではなく、彼らの人生として捉えると、これはもう終わりのない物語です。
 
達成できたら終わり、という目標が示されていないから、生きている限りいつまでだって人生は続く。
シーズン3よ、はやく。
 
 
 
 
多くの韓国ドラマの公式サイトには、そのドラマの企画意図というのが掲載されています。
「賢い医師生活」のそれは、こうでした。
 
【企画意図】
「メディカル」と書いて、「ライフ」と読む、
「賢い医師生活」は私たちの平凡な人生の話だ。
 
一人一人の「生老病死」が集まり、数万の話が溶け込んでいるところ。
誕生の喜びと永遠の別れの全く違う人々が共存するところ。
 
同じ病気を持っただけで大きな力になっても、
時には誰かの不幸を通じて慰めを得たりする皮肉なところ。
 
まるで私たちの人生とあまりにも似ているところ。病院だ。
 
そして、その病院を守る平凡な医師たちがいる。
 
適当な使命感と基本的な良心を持った、
病院長への権力欲よりは空腹を満たす食欲が先で、
シュバイツァーを夢見るよりは、私の患者の安寧だけを気にするのも手に余る、
一日一日、ただ与えられた仕事に忠実な5人の平凡な医師たち。
 
もう40歳になった彼らが
それぞれ違う人生の形態をしたまま再び出会う。
 
ただ青春を共にした友達でいいし、
同じ悩みを分かち合うだけでも慰めになる彼ら。
 
専門医10年目にも、依然として手術場の前では緊張を隠せず、
人生40年目にもまだ成長痛を経験する彼らは、
病院の中で学び、痛く、成長する。
 
【99年度入学生医大同期の5人】
いつからか、暖かさが涙ぐましくなった時代。
「賢い医師生活」は小さいけど暖かくて、
軽いけど心の片隅をどっしり埋めてくれる
 
感動ではなく共感の話を伝えたい。
とどのつまりは、人が生きるその話さ。
 

 

 
追伸:それにしても韓国ドラマはいったい何台のカメラを同時に回しているんだ?
 
「賢い医師生活」に限らず、どのドラマを見ていても、そのカット割りの数多さに驚きます。
一連の芝居をマルチカメラで同時に撮影し、編集で使い分けることは日本のドラマだってよく見かけます。
ただその多くは、同じ方向からのマルチアングルだから、何テイクほど撮影したかは案外と想像しやすいです。
 
 
 
しかし韓国ドラマを見ていると、逆転したアングルが頻繁に差し込まれている事に気づきます。
てことはつまり、セットの場合、壁だったところを取っ払い、カメラアングルを逆転させて、何度も何度も同じ芝居の一連を撮影しているということになります。
 
そうして得られた数多くの撮影素材を編集で組み合わせています。
 
 
ここで問題となるのは、テイクごとに芝居が違っていたら編集でつながらなくなってしまうということです。
 
こっちのアングルから撮った芝居で、例えば◯◯のせリフのところでコップを手にしたら、その芝居を常に同じタイミングでしなくてはいけない。
 
アクションだけでなく、ちょっとした手の動き、手の位置、顔の向き、目線の方向などもすべてタイミングはいっしょでなければなりません。
編集してみたらアクションがつながらない問題が生じてしまうからです。
 
 
韓国ドラマには食事のシーンがよく出てきます。
多人数での食事シーンでも、アングルがころころと変わります。
 
でも、編集された一連を見ると、アクションや目線や顔の向きなどが一定です。
何度繰り返しても常に芝居は安定している、という当たり前のことができている、ということなんでしょうね。
 
一度、例えば食事シーンなんかそういうところに注目して見てください。驚きます。