「道徳」とはホラーであるかもしれない

ひょっとして道徳からホラーを生み出すのはとても簡単ではないか、というお話。
 
 
小学3年生の道徳の教材に「まどガラスと魚」という文章があります。
 
 
以下、おおまかなあらすじです。
キャッチボールをしていた千一郎少年の投げたボールが、
どこかの家の窓ガラスを割ってしまった。
謝らなくちゃ、と思いながらも千一郎はそのまま帰ってしまった。
気になって、翌日その家を見に行くと、窓ガラスはまだ割れたままで、
その翌日には「ガラスを割ったのはだれだ?」と書いた紙が貼ってあった。
その日の夕方、千一郎の家の魚(飼っていた魚なのか食べようとしていた魚なのかはわからない)を、どこかの猫がくわえて逃げていった。
数日後、近所に住むお姉さんが訪ねてきて言った。
「魚を猫に取られませんでしたか?」
どうやら飼猫が魚をくわえて帰ってきたらしく、一軒一軒尋ね回っていたらしい。
お詫びにと、お姉さんはアジの干物を2枚、千一郎家に渡した。
そのアジの、大きな目で見つめられたような気がした千一郎は、母親に窓ガラスのことを打ち明け、謝りに行くこととした。
勇気を持って正直に謝りに来た千一郎(と母親)に対し、割れたガラスの家のおじいさんは、こう言った。
 
「正直な子どもが来るのを楽しみに待っていました。」
あらすじここまで
 
 
 
【道徳】とかいうやつは、いまや日曜夜6時半のテレビのなかにしか存在しないファンタジーのようなもので、《昔はよかった》幻想にとらわれている大人たちの理想に思えて仕方ありません。
 
この「まどガラスと魚」は、うそやごまかしは真の解決にならず、自分の誤ちを認める素直さ正直さを学ぶ教材らしいのですが、ひとつひとつのエピソードにどうもホラー感を感じてしまいます。
 
 
 
 
まずは、
「魚を猫に取られませんでしたか?」と訪ねてくるお姉さん。
飼い猫が魚を盗った、そのお詫び、というのはわかります。
わかりますが、お詫びの品が同じ魚、しかも干物だなんてその選択に首を傾げざるを得ません。
しかもその干物をどういう形で持ってきたのでしょう。裸でぶら下げて、だとしたら怪しすぎます。
 
 
 
しかし千一郎少年は、そのお姉さんの正直な行動に触れ、ガラスを割ったことを親に告白し、反省するのです。
気持ちはわかります。
自分に正直に、という狙いのためにそうしたエピソードを差し込んだ気持ちはわかります。
それでも、お魚くわえたドラ猫、とアジの干物というモチーフのせいで、汚れちまった大人はどうしても素直に反省へと心が動かされないのです。
むしろ、「なにかあるぞ」的気配を強く感じ、一気にホラーワールドへと進んでいくのです。
 
 
 
例えばこんな演出をしたくなってしまう。
 
台所の、醤油の跡が残るビニルマットが敷かれたテーブルの上に、ぽつんと置かれたアジの干物。
天井にぶら下がる古びた蛍光灯の点滅が、死んだ魚の、しかも両開きの干物のアジの、骨格丸見えの、その目を照らし出す。
牛乳を飲むために立ち寄った千一郎少年は、その目を見た瞬間、金縛りになったように動けなくなってしまう。
BGMは、冷蔵庫の鈍いコンプレッサー音とノイズ混じりの不協和音。
 
千一郎少年の耳に忍び込んでくるのは、どこかの誰かの「おれは知ってるぞ。お前がガラスを割ったのを。ふふふふ」という声。
一滴二滴と床にしたたる牛乳のしずくが、窓から差し込む夕日に照らされ、赤く染まっていく。
 
 
 
 
 
極め付きは、窓ガラスを割られたおじいさん。
正直に謝りに来た千一郎にこうつぶやくのです。
 
「正直な子どもが来るのを楽しみに待っていました。」
 
おじいさんはどんな表情でこのセリフを発するのか。
視線は一点に止まったまま動かず、かすかにあがった口角に、食事前の舌なめずりさえ感じます。
カメラはおじいさんの背中を捉えたままゆっくりとトラックバックしていき、家の奥へ奥へと進み、そのまま古びた一室の扉の隙間へと入っていきます。
 
その部屋の片隅には、千一郎少年のような《正直な子どもたち》が折り重なり、眠るように横たわっている。
 
 
 
 
千一郎少年は、魔界への入り口である窓ガラスを、不覚にも割ってしまったのだ。
 
 
 
 
ああ、こわ。
なんという道徳心のない読み取り方をしてしまうんだ。
ごめんなさい道徳。
こんな大人こそが、道徳を一から学び直さなくてはいけない。
 
 
 
 
 
しかし、心配することはありません。
教材を手にする子どもたちのしたたかさにホッとします。
 
 
この教材を知った本、「道徳教室」のなかで著者の高橋秀実さんが子どもたちにインタビューをしています。
 
 
 
小学6年のひとりはこう語っています。
 
道徳は文章が短いので頭がこんがらなくて、ふつうに好き。
登場人物が後悔するのも共通しているから、すぐにわからなくても考えれば分かる、と。
 
 
 
 
もうひとりの小学6年は、道徳にはフラグが多いと分析しています。
フラグとは?の例としてこう答えています。
 
登場人物が戦争に行くとする、母親がきっと帰ってきてね、と言う。
それがフラグ。
そういうセリフがあるということは、登場人物は戦争で死ぬということ。
死ぬという前提があるからそういうセリフになる。
それがフラグ。
 
フラグはパターン化された展開を読み取るためのもので、話としてのつまらなさを確認するもので、つまり、道徳はありがちなストーリーであると。
 
 
 
 
 
教材としての《道徳》と社会における《道徳》。
大人たちは教材における《道徳》と社会における《道徳》は一直線上にあると信じているが、子どもたちはその違いを明確に区分し、教材における《道徳》は実践のために事前練習なんかではないとしっかりわかっている。
 
子どもたちにとっての《道徳》はファンタジーなのだ。
 
《道徳》の教材に接するとき、そこから作者や先生の意図や思惑を見抜き、期待する答えをかんたんに見つけ出していく。
 
それはテクニックであり、したたかさでもある。
 
そこに仕組まれた仕掛けさえ読みとめば、二重丸をもらうのなんて簡単さ。
パターンから、大人たちが喜ぶ答えを探し出して元気よく発言すれば点数がもらえるのさ。
 
 
 
それでも大人たちは、アリバイ的に《道徳》の大切さを伝えなくてはいけない。
優しく正直素直で、心豊かな人間へと成長していくために欠かせないものと信じて。
 
そんな大人たちの姿を見て、ほら、子どもたちが笑ってる。
 
その構造こそ、ホラーに思えてぞっとする。