「ときめきに死す」を40年ぶりに見返してみて、やっとあのケンカシーンの意図が自分なりにわかった

むかーしむかし「ときめきに死す」なんていう映画がありました。
監督は(「家族ゲーム」の)森田芳光で、既成概念をぶっ壊せ!お前ら楽しめるか!と数々の実験を散りばめた要注意映画です。
な、な、な、なにこれ?と若かりし映画青年(私です)のお尻を、スプリングの壊れかけた場末の映画館の座席から10センチほど浮かび上がらせたシーンがあります。
 
 
 
沢田研二杉浦直樹、樋口加南子の三人の対話シーンです。
撮影の基本中の基本と言われるイマジナリーラインなんて廃棄物だ、と言わんばかりに放り捨て、それどころか人物配置さえ混乱させやがる。
 
加えて、会話している人物に注目させない企みを画面の片隅に忍ばせ、なに真面目に画面見てんだ?と観客をあざ笑う仕掛けさえ仕込んでやがる。
(約2分ほどのシーン↓)
 
 
撮影にはね、イマジナリーラインてのがあってね、それ守らないと観客は混乱しちゃうから厳守ね、という伝統的映画住民たちは、若き映画監督の悪巧みに怒ったとか呆れたとか。
 
 
日大芸術学部出身の森田芳光は、イマジナリーラインのこと知らないわけはなく、知っててあえてチャレンジしてるから、若き映画青年(私です)はその実験に喝采を送ったのです。
 
 
さて、時は流れ、昭和から平成、令和へと。
かつてイマジナリーラインの破壊に興奮した若き映画青年は、ただのおじさん(私です)となって嘆くのです。
 
 
あれ?なんだ?
ドラマで時おり見かける会話編集の違和感に、このスタッフ、イマジナリーライン知らずに撮影してるんじゃない。って。
 
 
 
 
結果は同じでも、無知によるものか、除破離や型破りの末のものかは、全体を貫くトーンや試みの分散でわかるものです。
 
 
と、まあ、ね、ほら、さ。
は?で?と煙たがられる前におじさんはドロンしーましょ。あとは若いもん同士でご自由に。
 
 
 
 
 
 
 
追記
森田芳光イマジナリーラインを越えてないんです。しっかり守ってるんです。
これでいいんでしょと守りながら、ほんじゃあ人物動かしちゃえ、なんです。イマジナリーライン守ってるから文句あるか!  
 
屋上のケンカも当時は変な演出、程度の印象だったけど改めて今考えると、もしかして、イマジナリーライン守れ論争なんてどうだっていい無意味な戦いだ、ってのをあえてあの方向性無視したシーンの背後でケンカとして表して、無意味さをシニカルに匂わせたんじゃないのかな、今になって思ったりします。
 
40年近く経って見直すことで、違った解釈が生まれるから、一度見ただけでもう終わり、としちゃうのはホントもったいない。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
想定線(そうていせん)、またはイマジナリーラインとは、映画撮影など映像動画収録の専門用語で、2人の対話者の間を結ぶ仮想の線、あるいは人物、車両などの進行方向に延ばした仮想の線をいい、この線を超えたカメラの移動や編集(カット繋ぎ)をしてはいけないとされている映像制作上の基本原則である。
Wikiから)

A・B・CのつなぎにD・Eのカットを挟み込むと人物の位置関係に混乱をもたらす。あくまでも基本で、移動ショットなんかでイマジナリーラインを超えたり、別のカットをインサートしたりすれば良し。