なんかいい、ってむずかしい。「リトル・フォレスト」(日本版)を見て

マンガが原作の、
「リトル・フォレスト夏・秋」
「リトル・フォレスト冬・春」

 

自然に囲まれた岩手の集落で、独り暮らす女性(橋本愛)の、一年の物語です。
2本あるのは劇場公開が2回に分かれていたからで、実際には春夏秋冬それぞれ1時間ほどの4部作

退屈といえば退屈。変化がないといえば変化はない。
でもね、これが「なんかいい」んです。

 

橋本愛の力を抜いた語り(モノローグ)が「なんかいい」。
遠慮がちに忍び込んでくる宮内優里という人の音楽が「なんかいい」。
しっかりと聴こえる生活の音が「なんかいい」。
季節をしっかり捉えた映像が「なんかいい」。
次々と出てくる食が「なんかいい」。
セリフは少ないが時おりのセリフの重みが「なんかいい」。

いくつかの「なんか」を味わうために何回も観たくなってしまうんです。
今だってこれを書きながらバックグランドではAmazonビデオで観てます(聴いてます)。


一応ね、映画ですから、橋本愛の母親が突然失踪したとか、都会で暮らしていたけれど結局故郷の集落に戻ってきて今は独り暮らしとか、仕事先での小さな母性愛や不平とかあるにはありますが、深掘りはしません。
物語として深掘りしない代わりに、橋本愛が心を語り、すぐに農作業と調理の「営み」へと戻っていくのです。

そんな映画らしい醍醐味や変化や外連もないのに、この映画をいいと思う「なんか」とは何か?
考えてみました。
すると、ひとつのコトバがすとんと降りてきました。


そのコトバとはこれ、「丁寧」


東北の四季のなかで生きていくために必要な、営みとしての「丁寧」。
繰り返される毎日のなかで語られる心の「丁寧な」変化。
これら丁寧を時間をかけてカタチにした、映画制作(撮影と演出)としての「丁寧」。

自然相手だからままならぬこともあったかと思いますが、それでもすべてのカットに「丁寧」を感じてしまいます。

「この作品は丁寧に撮ろう」
そんな制作陣の合言葉が聞こえてくるようです。


この作品の場合、脚本の位置づけはどこにあったのかも気になります。

 

例えば、「冬・春編」のなかに、こんなシーンがあります。

吹雪の映像に、橋本愛のモノローグがダブります。

「冬の終わりにはきまって嵐が来る。その日は吹雪と春の光がめまぐるしく入れかわる大嵐で」「青い光と黒雲にまっぷたつに割れた空を見た」

映像は、左に黒雲、右に青空という空を見上げている橋本愛の後ろ姿。

画像

脚本にこんなモノローグを書いたとして、空がそんな思った通りに現れるとは限りません。撮影が先で脚本が後としか思えないシーンです。

他にもきまぐれな自然の映像と、その自然を描写するモノローグがいくつか出てきます。

想定に基づく脚本と偶然に感謝する後追いの文章。
豊作となるか凶作となるか、映像制作のプロセスそのものが天候に左右される収穫のようで、制作陣の一喜一憂が目に浮かびます。

実際にこの映画のような営みをしている人は「現実はこんなもんじゃない」もあるかもしれませんが、田舎暮らし経験のない自分には、ここで描かれているすべてが興味深くリアルです。

冬のために薪割りをし、作物を保存し、面倒だからとひと手間を省いてしまうと、必要な時に(おおげさでなく)生きていけなくなってしまう。
あ、足りない、ちょっとコンビニで買ってくるわ、なんてできません。


語られるセリフもリアルであるがため、重い。

例えば橋本愛の後輩の男性ユウタ(三浦貴文〜山口百恵ちゃんの息子)は、街に出て集落に戻ってきたという設定で、なぜ戻ってきたかと問う橋本愛に対しこんなことをいいます。

「方言じゃなく、こことあっちでは話しているコトバが違う。何にもしたことがないくせになんでも知ってるつもりで、他人が作ったものを右から左に移してるだけの奴ほど威張ってる、薄っぺらな人間の空っぽなコトバを聞かされるのにうんざりした。(こっちの人たちは)中身のあるコトバ話せる生き方してきたんだなって」

薄っぺらな人間の空っぽなコトバって、俺のことか?と痛い。痛い。

映画としてすごく「いい」し、宝物のように何度も見返したくなりますが、じゃあ同じような生活してみたいか、となるとそれとこれは別。
できないししたくない。

誰かが育て収穫して殺して加工したものばかり口に入れてきた身としては、この映画の集落に住まざるを得なくなったとしたら3日で餓死してしまうでしょう。
それよりもなによりも、この映画に満ち溢れている「丁寧」とは縁遠い毎日を送っているから、「営み」のほうから拒否されてしまいます。

今の自分は、長い歳月をかけてなにかを育てる根気のようなものはこの身体の中からはもう湧き出てこないし、ひと手間かければ美味しくなるのにそのひと手間さえ待てない時間間隔に取り憑かれてしまっている。

だからこそ逆に、「丁寧さ」に対して憧れのような感情を感じてしまい、「なんかいい」となってしまったのかも。

でもね、当事者として入り込めないけれど、通りすがりの部外者としてこんな映画(作品)を作ってみたいという身勝手な願望はあるのです。

でも難しいだろうな。
どうしても入れたくなってしまう成長や変化や恋愛や、そんなこんなを捨て去って削ぎ取って、それでも最後に残る上澄みを「いいもの」だと信じる信念みたいなものがいるから。

それは計算で生み出すのか感覚から生み出されるのか、まったく謎です。
自分を信じるしかないけれど、そのためには信じられる自分、があるかどうか、に立ち戻ってしまいます。

この映画に貫く「なんかいい」

受け手に「なんか」わからないけど「いい」と思ってもらうのは、ホント難しい。
だから「なぜいいのか、これこれこうだからじゃないか」と考え続けなきゃいけないのか。