もし森保ノートがスマホだったら

多くの国民からくるんくるん手の平をひっくり返されている森保一監督は、試合中いっぱいメモをしています。中継で抜かれるとだいたいがメモの真っ最中です。
私が中継ディレクターだったら、俯瞰カメラズームしろ!と指示するのに、国際映像は気が利かない。


いつも気になります。
打合せ中でも雑談中でも誰かがふいにメモをとると、訊ねたくなります。
「そのメモ、いまなに書きました?」
この話のどこが記録へのスイッチとなったのか。
ここ?そこ?ひょっとしてあれ?と。


ずっと以前の「スイッチ達人インタビュー」という番組で、映画監督の西川美和さんといきものがかり水野良樹さんの対談がありました。

西川さんはずっと大判のノートを手元に置いていて、対談の途中、何度もなにかを書き込んでいました。

なに書いてるんだろうと、番組中ずっと気になっていました。

対談相手の水野良樹さんもそうだったらしく、番組の最後に西川さんに尋ねました。

「西川さん、そのノート、なにメモしてたんです?」

すると西川さんは、こう答えました。

「ノートは武装。優位性を持てる。カメラも一緒」と。

武装。武器。優位性。

試合中の課題や改善点の記録だけでなく、森保監督のメモにはあらゆる武器が兼ね備えもつ、抑止・統率・掌握・監視のような役目があるのかもしれません。
ピッチ上で選手がなにかやらかした時、ちらっと監督を見ると、メモをしている。
「あ、メモってる、なんだろ。オレのさっきのプレイのことだな、いかんいかん」と、自己反省を促す、そんな作用を無意識に生み出しているとしたら非常に有効的な武器使用です。


しかし思うのです。
この武器はメモ帳というアナログだから効力を発揮できるのであって、
デジタルだったら、どうなんだろうと。


そう、
もしも森保監督のメモがスマホだったら。

目的は同じだけどどう見られるのだろう。
「なに試合中にスマホいじってんだよ。(だから負けるんだ)」とか、本質とは別の部分でもなにか言われてしまう空気が、まだまだ、残っているような気もします。

いじってる。なんですよね、どこか、真剣な場では。

スマホの多機能は使う分にはホント便利でもういまさら手放せない。
でも対面する人が使っているスマホには素直になれないところが(どこか)あります。

メモ・ノートならメモしてるって一目瞭然。
本なら本読んでるってわかる。

だってスマホいじってる姿だけじゃ、なにやってんのかわからない。
メモ?誰かとメッセージ?検索?SNS見てる?
コミュニケーションを遮断されているフラストレーションがどこかに感じてしまいます。


森保一監督だってスマホでメモしてたら、
「ライン引いた人、太めのラインでサンキュー」
「伊藤洋輝はバックパスばかりしてないで三苫に渡せ」
「長友はブラボーを流行らせようとしてるけどどこか作為的なんだよな」
とか書いてるかも、と想像させてしまう隙間があります。


この感覚は、アナログ時代が長かった世代だからなのか、
それとも人間心理としてどの世代も感じることなのかはわかりません。

でも、確実に、ゆるやかに、いつしか、変わっていくんでしょうね。

目的・用途は同じでもツールは確実に変わってきていて、過渡期の今は「なんとなく」相手や状況で使い分けをしている印象があります。

でも、絶対的には流れは多数派へとなびいていくであろうし、それが当たり前になっていくのでしょう。

ノートは武装
だとするとそれは接近戦で有効な刃物や拳銃のようなもので、
だとするとスマホは、仕事も遊びも暇つぶしも覆い隠せちゃう、目に見えない化学兵器のようで、ある種不気味です。


企画会議の席は要注意です。スマホをいじる若手に向かって
「なにスマホいじってんだ!」
と尋ねると、こうなるのです。

「こういう案すでにあるかどうか調べてました」
「あ、そ、そう、ね。で、あった?」


もう戦えません。