フリーランスはヒマなのだ

フリーランスのお友だち〜本・映画・テレビ・ネット

川端康成様、あなたはどんな花の名前を教えられたのですか?

普段まったく本を読まない人が本屋で一冊を迷うように、花の名前を知らない男は花屋で一輪を迷う。


花に疎いです。花の名前から実体が浮かびせん。(実体から名前も浮かばない)

名前と実体が一致しているのは、チューリップ、バラ、サクラ、ヒマワリ、それからカーネーションタンポポ、ひねくり出してユリ&キクぐらいでしょうか。
心の岸辺に咲いているはずの赤いスイートピーでさえも、その姿形は謎のままです。

 

 

【別れる男に、花の名を一つ教えておきなさい。花は毎年必ず咲きます。】

 

 

本日4月16日は川端康成の命日です(自殺)。

彼が20代のときに書いた掌編のセリフがこれです(『化粧の天使達・花』)

 

 

川端康成というと、白髪の神経質そうなおじいさんというビジュアルイメージしかないですが、10代の写真を見ると、ダルビッシュ似のイケメンで、さぞかし多くの女性を泣かせてきたんだろうなが伺えます。


この掌編も、別れ際に投げかけられた捨て台詞から生まれたのかしらと、想像しちゃいます。

 

 

 

過ぎ去った記憶はある時あることをきっかけにふいに蘇ってきます。
背中の爪痕は自分では見返すことはできませんが、花は時限爆弾のように一年に一回スイッチが押されるから残酷です。


路傍の花にふと足を止めてしまった時、どこかできっとほくそ笑んでいるであろう花の名の教え人を、恨んではいけません。

小悪魔な企みに簡単に引っかかってしまった我の愚かさを犠牲にすれば、円満に時は過ぎさっていってくれます。

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『化粧の天使達・花』は、たった5行の短編小説。
添付の文章がすべてです。 
それなのに、背後にあったであろう物語が幾重にも幾層にも想像できてしまいます。

 


モチーフとして選んだ曼珠沙華は別名彼岸花。その花言葉は、情熱・再会・悲しい思い出・思うはあなた一人、とのこと。
球根には、毒もあるそうです。恐るべし川端康成


(写真の花は我が家に飾ってあったユリであり、文中の花・曼珠沙華とは一致していません。あしからず)

 

掌の小説 (新潮文庫)

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眠れる美女 (新潮文庫)

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曼珠沙華

曼珠沙華

 

 

昭和は「懐かしい」か「カワイイ」か。昭和日常博物館で昭和に浸る

同じものを見ても、ある者は「なっつかしーい」と言い、ある者は「カッワイイー」という。それはなにかといったら、昭和。
いったい何枚写真を撮ってしまったことか。
こんな場所が愛知県は北名古屋市にあった。
北名古屋市歴史民俗資料館の3階「昭和日常博物館
しかも無料。
 
 
 
エレベータを出るといきなりの「三丁目の夕日」の世界がでーんとひろがり、自動車修理工場と駄菓子屋があるではないですか。

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お目当ては、内藤ルネに代表される特別展の「昭和のかわいいモノ手帖」というやつでしたが、いきなりの常設展でいきなりの足止めでいきなりのタイムスリップです。
 
中に入ると、「長栄軒のパン」の看板が目に飛び込んできます。錆びてかすれたその風合いがたまりません。

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さらには所狭しと置かれた昭和のモノモノモノ。
あの頃だれの家にもあった、パッケージも、ゲームも、ジュースの瓶も、インスタントカレーも、土産物も、めんこも、時代を過ぎればなにもかもが「懐かしく」そして「カワイイ」の対象になってしまうというこの魔法。

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お目当ての内藤ルネの展示は、思ったよりも少なく寂しかったですが、それでもその残念さを吹き飛ばすほどの充実の昭和の数々。

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昭和の博物館というと高山の「高山昭和館」が有名だけど、こんな近くにもあるのです。あまり知られていないらしく、来場時他にお客さんはひと組の親子のみ。しきりと「なつかしーい」と母子が叫んでいました。
できるならば平成の、しかも女子たちがそこにいたならば、彼女たちが何を見て何に興味を抱きなんて叫ぶのかを知りたかった。

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そうそう、地下一階の1960〜70年のクルマコレクションも見ものです。

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昭和ノスタルジー解体: 「懐かしさ」はどう作られたのか

昭和ノスタルジー解体: 「懐かしさ」はどう作られたのか

 

 

顔に重度の障害を持った少年の物語「ワンダー」からできることを考えてみる

予告編を見てとても気になった映画「ワンダー君は太陽」。
原作の「ワンダー」(R.J.パラシオ)を読みました。
ワンダー Wonder

ワンダー Wonder

 

 

主人公オーガスト(オギー)は、遺伝子疾患により顔に重度な障害を持っている10歳の少年。
 
その障害の描写を一部引用すると、
 
目は頬の真ん中近くにあり、鼻は不釣り合いに大きくぽってり肉がついている。耳のあるべきところはへこんでいる。頬骨はなく、口の周りは口蓋を治す手術を何度も受けた跡が残っている。
 
これまで、ネズミ少年、奇形、怪物、E.T,トカゲ顔などと散々呼ばれてきた彼が、はじめて学校に通うこととなり、その一年間を描いた小説(フィクション)です。
 
 
こうした障害を持つ主人公であるから、ある程度のストーリーは予想できます。
いじめや差別に遭い、でも家族や先生、友だちに支えられてたくましく生きていく、というストーリーが。
 
たしかに物語の終わりはとても清々しく微笑ましく感動的です。
でも、ただ「良かったね」では済まされない何かが、いま、心の奥底に残っています。それはけっして後味が悪い、という類のものではありません。
なにか、どうしてもすくい切れず残ってしまった重たい澱のようなものが、頭のなかでぐるぐる渦を巻いている、そんな感じなのです。
 
 
なぜ?なにがそうさせるのか?
 
 
「ワンダー」は、章ごとに視点が変わります。
同じ出来事が、主人公オーガストだけでなく、姉、姉の恋人、学校の友だちらの視点で進行していきます。
家族だからという無条件の愛情や博愛という言葉では片付けられない複雑な思い、たまたま同じ学校になってしまったという戸惑いや同情などが、順に語られていきます。
その視点は、一人称で書かれているから、時に正直で時に残酷です。
 
彼らはみな、深い浅いの差はあれど、オーガストと関わり合って今を生きている人たち。
自らの人生のなかで、多くか一部か、オーガストが存在している人たち。
オーガストがそこにいるからオーガストとの距離感のようなものを考えてしまう人たち。
 
 
それらは美しく愛に満ちているものばかりではなく、ふとよぎる邪な思いがあったりと、正直かつ残酷です。
そしてこれらが、読む人のだれもが持っている感情と重なりあい響いてくるのです。
同時にこんな問いかけが投げかけられます。
 
「自分ならどうする?」と。
 
 
 
 
 

数年前のことです。

ホームにやってきた地下鉄に乗りこむと、どこからかビートルズの「HELP」が聴こえてきました。ヘッドホン音漏れなんていう生易しいレベルじゃなく、スピーカーからの音です。
出どころは?と見ると、座席に座る青年が掲げるラジカセからでした。しかも青年は、曲に合わせて大きな声で歌っている。
 
 
乗客はさぞかししかめっ面、かと思って見回すと、おや?空気が変です。
誰もが彼の存在をいないものとして受け止めているような、そんな雰囲気さえ感じます。
その青年が強面だから?注意すると逆ギレの危険がありそうだから?
いいえ、むしろ逆です。見るからにか弱く細身の青年です。
 
 
 
その訳がわかりました。青年はおそらく、知的な部分で障がいがあるようです。
 
地下鉄車内でラジカセを鳴らし大声で歌う。
そんな行為だけを見ると、公共の場ではけっして許されるものではありません。乗り合わせた多くの人が迷惑を被っています。ヘッドホン音漏れなんてレベルを超えてます。
でも、車内の誰も、見て見ぬふり、いえ、その存在自体いないかのように振る舞っているのです。
 
たまたま同じ車両に乗り合わせた自分もすぐさまその仲間入りです。
そして思ってしまったのです。
厄介な現場に居合わせちゃったな、と。
 
 
 
本当にわからない。
こういうときどうすればいいのかが。
 
 
 
行為だけを捉えて注意すべき?でも、どんな言葉で注意すればいいの?
いわゆる常識的な説得が通じるのだろうか、説いて理解してもらえるだろうか。
おそらく言葉は行き場を失って過ぎ去っていってしまうだろうし、となると考えてしまうのは、見て見ぬふり、というやつ。
自分のなかにその存在を受け入れるなんて事をせず、はじめから無かったものとしてしまうこと。
 
 
ああ、こうして書いていてなんて残酷な、と思いながらも、同時にこれが正直な気持ちなんだろうなというような、複雑な感情さえも抱いてしまいました。
 
 
同情・憐憫・不憫・哀憫とかの言葉で、その存在を受け入れてしまうこともできます。
でも「ワンダー」を読み終わった今、そのとき抱くべきだった言葉(感情)は、ひょっとしたらもっとシンプルな感情だったのかも、と思っています。
 
 
それは「親切」
 
 
「ワンダー」は修了式で終わります。校長がこんな言葉を語ります。
以下要約ですが。
 
 
いつも、必要だと思うより、少しだけ余分に人に親切にしてみよう。ただ親切なだけではじゅうぶんではなく、必要だと思うより、少しだけ余分に親切に。
親切である能力、親切であろうとすることを選ぶ能力は、どうやって測るのか。ものさしでは測れない。
どれだけ身長が伸びたとか数字で示せるものではない。親切であったかどうか、どうしたら分かるのか?そもそも親切であるとはどういうことなのか?
 

 

ここで校長はある物語の一部を引用します。
それは、登場人物のひとりが主人公を助ける場面です。
 
このような瞬間(助けたとき)に、(主人公は)人の形を借りた神の顔を見た。
親切の中にかすかに現れ、熱意の中で輝き、心遣いのなかで気配を見せ、じつに、まなざしのなかで優しく撫でる。
親切というのは、とても些細なこと。必要なときにかける励ましの言葉、友情にあふれた行為、さりげないほほえみ。
親切という小さなことの価値を理解しよう。
いつどこにいようとも、必要とされる以上に親切にしようということを規則にしていれば、世界はもっと素晴らしい場所になる。そして、もし、きみたちが実行したら、それぞれが一步踏みこんで、必要だと思う以上に親切にしたら、いつか、どこかで、だれかが、きみたちのなかに、きみたち一人ひとりのなかに、神様の顔〜それぞれが信じる普遍的な善の象徴〜を見るのかもしれない。
 

 

 
多くの物語のなかでは、主人公は変わっていきます。物語のはじめと最後で、主人公は成長し変化します。
 
でも「ワンダー」の主人公オーガストは変わらない。顔も変わらない。そのまま。
ただひとつ、オーガストの周りが変わった。
 
確かに自身の能動的な働きかけでいろいろなものは変わっていくのでしょうが、そうではなく、周りが変わっていくことだってあります。
 
 
最後、修了式である賞を受賞したオーガストは心のなかで思います。
 
どうしてぼくが選ばれたのか、よくわからなかった。いや、そうじゃない。ほんとうはどうしてだか、わかっていた。
だれかを見かけて、もし自分がその人だったらどうかなんて、ぜんぜん想像がつかないってこと、あるよね。
車椅子の人や、話せない人を見たときとか。
そして、ぼくがほかの人にとってそういう存在なんだってことくらいわかっている。ボクはそういう人間だ。
でも、ぼくにとって、ぼくはただのぼく。ふつうの子ども。
うん、だけど、ぼくがそのままのぼくでいることにメダルをくれるっていうんなら、それでいい。喜んでもらうよ。
(中略)ただ五年生を無事に終えただけなんだけど、それって、かんたんなことじゃないんだよね。べつにぼくじゃなくても。
 

 

 
「親切」という言葉がこの物語を通じて心に残りはしたが、ならばあの時地下鉄の中で自分ができた親切とはなにか。の答えはまで出てきていません。
それは行動によって示すものだけでなく、心のなかで思うこともあるのかもしれません。
心のなかで思う親切。う〜ん、でもまだよく分からない。
 
 
 
「ワンダー」は、日本では小学校高学年の課題図書に認定されています。
でも、この本は子どもだけの本にしておくにはもったいない。多くの大人たちも読むべき本だと思います。
 
障害だけにかかわらず、これだけ多様性に満ちてきて、その多様性が表にではじめているなか、そういう人たちとの関わり方に戸惑いを多くの人が感じています。
自分とは違うから、常識と外れているから、普通じゃないからと排除したり区別したりと、それは残酷で、でも正直でもあることも確か。
 
 
映画「ワンダー君は太陽」は、アメリカではすでに公開済みで、高い評価を得ているようです。でも、オーガストと同じような障害を持った人たちからは、過酷な現実を無視している、感動ポルノだとの批判もあるようです。
 
やはり立場が違うと受け止め方も異なります。当事者でないからすべてを同様に捉えることはできないことも現実。
でもまずは知ること。知って考えること。それだけでも無駄ではないと信じたいです。
 
それもひとつの「親切」だと思いたい。
 
 
日本では映画は6月に公開の予定らしいです。映画を見る前でも見終わった後でも、「ワンダー」を読んでみて、誰かと話してみることが大事のような気がします。そして、自分は登場人物の誰と近いのか、「自分だったらどうする?」と問いかけてみる。
そこから何かがはじまりそうな気がします。

wonder-movie.jp

 

顔ニモマケズ ―どんな「見た目」でも幸せになれることを証明した9人の物語

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ジロジロ見ないで―“普通の顔”を喪った9人の物語

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「半分、青い」の舞台は岐阜のマチュピチュだった

コップに半分入った水を見て「もう、半分」なのか「まだ、半分」なのか。

思考を語る例えとして、使い古され過ぎちゃってもう口にするのも恥ずかしい。

 

だからこれからは、空を見て「半分、青い」か「半分、雲い」といいましょう。

はじまりました朝ドラ「半分、青い」(から続く新生「あさイチ」もセットで)

www.nhk.or.jp

舞台は岐阜。出身でも在住でもないけど、気になる。

というのは、主人公の暮らす(という設定の)町である岐阜の恵那の岩村町には、ちょうど2年ほど前に仕事で行ったことがあるからです。

 

 

 

そこは【岐阜のマチュピチュだった】

 

「つい最近なんですよ、知られるようになったの。ずっとここにあったのに」

 

GoogleのCMにも登場した兵庫県竹田城跡のことを、サントリーBOSSのCMで満島ひかりがこう言っています。

 

行ったことないですが写真で見る限り、標高354mの雲海に包まれたその光景はたしかに幻想的です。越前大野城も同じような光景で知られていますね。

 

城マニアからしたら今さら、かも知れませんが観光地としてのブレイクはなにがきっかけになるのかわからないのでオモシロイものです。

 

竹田城跡は、天空の城とか日本のマチュピチュとか称されているらしいですが、

でも、知っていますか。岐阜の恵那市に「岐阜のマチュピチュ」と呼ばれる(呼んでいる)城跡があるってことを。

 

その名は「岩村城跡」

恵那インターから車で20分ほどの恵那市岩村町にあります。

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「半分、青い」の2年前、仕事でたまたま訪れ、その存在をはじめて知りました。

明治の廃城令で建物は解体され、今は石垣だけしか残ってなく、いわゆる観光地でもないのでそれほど知られている場所ではありません。

 

犬山城や姫路城など天守が聳える城はその壮観さに圧倒されますが、こうした城跡城址の見方、楽しみ方が今ひとつ分からなく「う〜ん」てな感じでぱぱっと撮影を済ませて去ったのですが、なぜだか今になって気になってきています。

 

 

岩村城跡と同じように、天守もない石垣だけの城跡なのに、竹田城跡はどうして注目を浴びているのかと。

 

 

 

で、こんな寓話を思い出してしまいました。

 

象を見たことのない人が、暗闇のなかで象の鼻に触れ言いました。「象は水道管のような生き物だ」、耳に触れた人は「扇のような生き物だ」、脚に触れた人は「柱のような生き物だ」と、象を表現しました。

 

どの感想も間違ってはいないけれど正しいわけでもない。

 

細部なのか全体なのか。

この喩え話は、観光地にも言えることなのかもしれません。

 

いま竹田城跡や越前大野城は、ある季節のある特定の時間帯の特殊な条件が揃った時だけの雲海の中に浮かぶ幻想的な瞬間を写真に捉えようと、多くの観光客が訪れています。

 

城マニア石垣アニア以外にとって、細部〜つまり城跡や石垣よりも、むしろ全体〜離れた場所からの眺め、のほうが観光という点ではお目当て度が高いのかもしれません。

 

 

竹田城跡も越前大野城も、遠くはなれた場所から全体=全貌を見通せるポイントがあります。

対して岩村城跡は、残念ながら全体=全貌を見通せるポイントがないようです。

暗闇の中で象の鼻や耳に接するだけしかできません。

もしかしたら岩村城跡にも、竹田城跡や越前大野城のように全体を見ることができるポイントがあったならば、その運命は変わっていたのかもしれません。

 

 

 

これを機会に岩村城について調べてみました。

標高は、竹田城跡の倍以上717mで、全国でも最も標高の高いところにある山城だとか。

築城も、竹田城よりも300年以上も古い、鎌倉時代の1185年という説もあり、歴史的価値も高い。

 

これはこれは、知らなかっただけでかなり貴重な城跡ではないのでしょうか。

隠れた逸材のような気がしてきました。

 

 

しかも、伝えられる物語もかなり魅力的です。

岩村城跡のある場所は霧が多く発生します。そのため別名「霧ヶ城」とも呼ばれていたらしく、しかも伝説として、敵が襲ってきたとき、岩村城秘蔵の蛇骨を井戸に投げ入れると、どこからともなく霧が発生し城を覆い、襲ってくる敵を撹乱したとかの話も伝わっているそうです。

これこそ竹田城跡の、あの幻想的ビジュアルに匹敵するかも、です。

 

 

さらに、歴代、城を守った城主のなかには、戦国時代政略結婚ながら家臣・領民を守った女城主(信長の叔母ともいわれている)がいたとか。

 

 

なんとも物語は揃いまくっています。秘めたる可能性を感じてきました。

 

 

まだありますぞ。

全然知らなかったのですが、岩村城の麓の町並みは、高山や足助と同じ「重要伝統的建造物保存地区」にも指定されていて、武家屋敷や町人屋敷など昔ながらの家並みが軒を連ねるなんとも雰囲気のいい場所です。

しかもただ古いだけでなく、カステラ屋、カフェ、菓子屋、土産物屋もあり、てくてく散策するのも楽しそうな感じです。

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その中に1軒、酒蔵見学・試飲ができる造り酒屋があり、いい雰囲気です。

「女城主」という名が冠された生酒をついつい買ってしまったほどです。

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高山もいい、京都もいい、馬籠妻籠もいい。古い町並みと趣を求めて国内外から多くが皆が訪れています。

これらが、紅白歌合戦の舞台で歌い踊るメジャーアイドルだとすると、岩村という町は……う〜ん、なんだか分かりませんが、ビビビときています。

 

 

 

 

岩村城跡は「下半分、石垣」で「上半分、ない」

岩村町は「半分、古く」見えて多分家の中は「半分、新しい」

その時買った女城主2本は「半分、特別本醸造」で「特別純米

と、なりました。

 

やはり日本のどこかは誰かの地元でご当地ですので、ご当地番組ご当地グルメご当地ソングにご当地アイドルというように「47分の1は、強い」

「半分、青い」は、まだ1回目しか見ていなく、でも楽しそうで、やはりご近所が舞台となると評価は甘く「半分、増し」となってしまうのは、ご当地マジックというやつですね。

 

 

 

連続テレビ小説 半分、青い。 Part1 (NHKドラマ・ガイド)

連続テレビ小説 半分、青い。 Part1 (NHKドラマ・ガイド)

 

 

 

人生で大切なことはヨーグルトから学んだ

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泊まりのロケのとき、夕食後にコンビニに寄るのが習慣化しています。いけませんねコンビニってのは。
ついつい普段買わないものを買ってしまいます。
 
例えば夜中お腹すくといけないからとスニッカーズとかね。
 
 
で、その日はパック入りの固形ヨーグルトを買いました。家では毎朝食べてるから欠かせません。ロケの日は朝ではなく夜の必需品です。
 
 
ホテルに戻って風呂から出て「ヨーグルト食べよ」とパックの蓋を剥がし「さあ」と構えたら、あらら、スプーンがありません。
 
コンビニ袋をひっくり返して振ってみても、手品の前振りのようにタネもスプーンもありません。
 
 
 
さあ、どうする?風呂に入ったからもう浴衣姿です。
もう一度コンビニ行く?
ダメです、気が弱いから他に何か買ってしまいそうだし、着替えるのも面倒臭い。
 
 
手には蓋の剥がれたヨーグルト。このまま開けっ放しにはできません。
 
 
考えろ考えろ。
こういう時は、企画を考えている時よりもカット割りを考えている時よりも、頭はフル回転です。
 
スプーンの代わりスプーンの代わりとつぶやきながら、部屋の備品やカバンの中のモノを画像検索です。
 
 
スプーンのような長さや硬さのものがただあればいいってもんじゃありません。
食べ物ですから衛生的にも問題ないものである必要があります。
ヨーグルトでグショグショになっても現状復帰できるもの、もしくは捨ててもいいものでなければいけません。
 
ポイントカード?名刺?ボールペン2本で箸のように?指?それとも液体化して飲み込む?
 
 
人間は考える動物です。
 
糊がなければごはん粒を練り練りしてくっつける。
ラケットがなければスリッパで卓球をする。
ドアストッパーがなければカバンひとつ置いておけば扉は閉まらない。
 
そうです、その気になればスプーンがなくてもヨーグルトは食べられます。
こぼすかもしれないことに注意を払えばなんだってスプーン代わりになります。
 
 
 
中国人観光客が、鍵のかかるトイレに、トイレットペーパー常備に、時間通りの電車に、従業員の丁寧なお辞儀に、驚くのはなぜか。
 
ニッポンてホントすごい国だ。
 
この国の当たり前のありがたさに慣れてしまうと、いざというときにサバイバルできなくなってしまうから要注意だ。
 
 
今、地方のビジネスホテルの小さな部屋の鏡の中に、スプーン代わりに◯◯を使ってヨーグルトを食べる、浴衣姿のオッサンが写っています。
 
 
ありがとう、ズボラなコンビニ店員よ。生き抜く知恵と力を与えてくれて。

日本沈没の時、「なにもせんほうがええ」を受け入れてしまいそうな自分

 「深読み読書会」(NHKBS/3月17日)が「日本沈没」を取り上げていました。

 
10代のころめっちゃハマっていた小松左京。今でも本棚に数冊あったなぁと久しぶりに取り出してみました。
どれも日に焼けて、しかもところどころページ角に折った跡もあって、そりゃそうだ40年以上も前の本だから。
ぱらぱらとめくってみたら、う〜んおもしろい、今でも引き込まれそうな描写がいっぱいで、ダメだ、今読み始めてはダメだ、読むのはまた今度ゆっくりと。
 
 
小松左京は特に長編が好きだった。
 
恐竜が闊歩する時代にどこかで電話機の金属音が鳴り響いているというプロローグに身震いした「果てしなく流れの果に」
果しなき流れの果に (ハルキ文庫)

果しなき流れの果に (ハルキ文庫)

 

 

 
(情報隔絶時代の)中国奥地でなにかが起こっている、で始まる「見知らぬ明日」
見知らぬ明日 (角川文庫)

見知らぬ明日 (角川文庫)

 

 

なんだか難しくてよく覚えていないけどおもしろかった記憶だけがある「継ぐのは誰か?」
継ぐのは誰か? (角川文庫)

継ぐのは誰か? (角川文庫)

 

 

自分以外の人が消えた「こちらニッポン」
こちらニッポン… (ハルキ文庫)

こちらニッポン… (ハルキ文庫)

 

 

 
どの本も知的な謎にあふれていて、しかも登場人物の職業も10代の少年にとってはカッコイイ職業(新聞記者・潜水艇乗組員・マッドサイエンティス・南極観測隊員)で、読んでいるときだけ少し背伸びできた思い出さえあります。
 
しかしそこはやはり悲しくも幼き10代、表層的なスペクタルや仕掛けに目を奪われ、深層に漂うテーマに気づかず素通りしてしまっていました。
 
 
例えば、今回の「深読み読書会」で取り上げられていたこの箇所。
 
日本が沈む、となった時、国として取るべき手段はなにか、という部分です。

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1:日本民族の一部がどこかに新しい国をつくる
2:各地に分散し、どこかの外国に帰化する
3:難民として分散する
 
の3つが挙げられ、さらに特殊意見として挙がったのがこれ。
 
「なにもせんほうがええ」

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今あらためてこのセリフが出てくるシーンを読み返してみたら、そこはほんの1〜2ページでさらっと読み飛ばしてしまいそうです。
 
でも、いま、50代になって読み返して、「なにもせんほうがええ」って?そんなばかな!ではなく、あり得るかも、と受け入れてしまいそうだからです。その意見に妙にしっくりと納得してしまう自分に驚きです。
 
 
 
 
 
ドキュメンタリー映像を見ていてときおり思うことがあります。
 
多くのドキュメンタリーは逃げなかった人を描いています。病気や挫折やまたは災害などに遭遇し、でも逃げずに立ち向かい新たなスタートを切った人たちがドキュメンタリーの主役として描かれます。
 
でもその反面、描かれなかった「逃げてしまった人」もいるはず。
時と運命に流され、「なにもしないまま」の人もいたはず。
 
そういう人たちを「弱い」「負けるな」と言えない自分がいます。
自分ももしかすると、絶望の淵に立ち、どうしようもなくなってしまった時の選
択として「なにもしない」を選んでしまうかもしれないと思ったのです。
 
 
これは年齢によるものなのか。気力と体力によるものなのか。
自分が背負わねばならないものの多寡によるものなのか。
それとも、状況、というか環境というか、そんな切迫感にもよるのでしょうか。
 
今この瞬間、身に危険が迫ってきたならば、おそらく死に物狂いで戦ったり逃げたりすると思います。
 
でもそうではなく、どう抗っても歯が立たない巨大な障害や災害には流れるまま無抵抗に従ってしまう、そんな気がしてならないのです。
 
しかも日本が沈む、というのは、自分ひとりだけにのしかかってくる出来事なんかじゃなく、日本国民すべてに訪れる事態。
ならば一蓮托生でもいいか、どうせみんな一緒に沈んじゃうわけだし、ジタバタしてもしょうがない。
で「なにもしない」
家も財産も確実に消え去り、家族も同時に同じ運命と為らざるをえないのならば、「なにもせんほうがええ」
そういった選択も「あり」かもしれないのです。
 
 
 
日本沈没」には、最終的にボツになった草稿があって、そこにはこんなセリフがあるようです。
 
 
「一億全部が島を離れず滅んでいってもいい。他国の迷惑やお荷物になるぐらいだったら、この国で死んでいった方がいい」

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でも、その草稿を小松左京は没にしました。
 
「なにもせんでええ」は特殊意見にとどめ、実際に小説内では、国が世界各国に働きかけ、移住受け入れに奔走します。
 
日本列島という故郷はなくなっても、日本国民はアイデンティティを抱いたまま世界へと散らばっていきます。
 
 
小松左京は、<SFとは希望だ>と言っています。

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小松左京が本当に描きたかったのは、日本国民が世界に散らばったあとの第2部なんでしょう。
(共著という形で第2部ありますが、こちらは正確には小松左京の本ではないので除外)
 
 
 
日本沈没」は、たしかに日本列島が海面下に沈み、失われてしまうカタストロフィな小説ですが、再びアイデンティティを取り戻すであろうという<希望>を感じさせてくれてはいます。
 
 
しかしでも、希望といいながらも、どうも最近「希望」を抱くのさえむなしくなる「不信」が国に対して起きています。
 
真実はどうなのかそれは分かりませんが、書き換えただの改ざんだの嘘の証言だの、なにを信じていいのやら。
国が信じられないって恐ろしいことです。
「希望」を抱くことの虚しささえ感じます。
 
「なにもせんでもええ」に納得してしまったのは、この時代の、この国のムード、のようなものに思わず影響されてしまったのかもしれません。
 
 
 
 
 
そういえば村上龍の「希望の国エクソダス」には、
「この国には何でもある。本当にいろいろなものがあります。だが希望だけがない」というセリフがありました。
なんか最近の出来事をみていると、このセリフも妙にしっくりときます。
希望の国エクソダス」も読み返してみよう。

 

日本沈没 上 (小学館文庫 こ 11-1)

日本沈没 上 (小学館文庫 こ 11-1)

 
日本沈没 下 (小学館文庫 こ 11-2)

日本沈没 下 (小学館文庫 こ 11-2)

 
日本沈没

日本沈没

 
希望の国のエクソダス (文春文庫)

希望の国のエクソダス (文春文庫)

 

 

声高に叫ばないアートたち

県立の某芸術大学で開かれていた卒業制作展に行きました。
広々としたキャンパスでは、彫刻、日本画、洋画、デザイン、映像などに分かれた棟ごとの教室で、大小バリエーション様々な作品が展示されていました。
 
展示箇所が記されたパンフレットに従い、どういう順番で回るのが効率がいいかなと動線を決め、棟から棟へとめぐるのですが、不思議なもので、ここが芸大、そして卒展、となると、展示された作品以外のモノの方に立ち止まってしまうのです。
 
 
例えばそれは、
校舎の壁に沿う植物

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例えばそれは、
おそらくいつもは掲示物で埋め尽くされているであろう階段横の壁

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例えばそれは、比較的新しい校舎の渡り通路らしきところから顔を覗かせている植物のかたまり

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どれもどこでもよく見かけるといえば見かける光景。珍しくもなんともありません。
でも、普段この場所を知らない者が、ここは芸大いまは卒展、を意識すると途端に目にするものが「アート」ぽく飛び込んでくるから困ったもんです。
 
とはいうものの、おそらく自分は、<なにかおもしろい作品見つけてやろう>と身構えていったからなのかもしれません。
裏を返せば、それだけ本命である卒業制作作品のほうに魅力を感じず、飽き飽きしていたからなのかなとも。
 
 
 
インスタが盛んになってみんなが<なにかおもしろいもの>を見つけようと躍起です。
なんてことのない食事や町並みさえ、自分はこんな目線で見つけたのよ、と一億総アーチスト状態です。
 
そんななか、芸術家を目指す学生らは大変でしょう。
ただ技術的に優れているだけではダメで、プラスアルファのなにかがないと素通りされていってしまいます。
発表の場も、ギャラリーやサロンという固定の場からネットへと広がって、プロモーション能力も重要となってきています。
 
 
学問的技術的に芸大とかで学んだアーチストよりも、そんな出身でもなくちょっと器用で面白がりのアートしてみました作品の方がおもしろいってことよくあるから。

小さなボタンひとつで少年は世界を変えた

押しボタン式信号のある歩道でボタンを押して信号が変わるのを待っていた。そこへ、ヘルメットを被った、小学校低学年らしき少年が自転車に乗ってやってきた。

少年は自転車にまたがったまま両足を不安定に動かしながら、押しボタン機の前に立っている私の前に割り込んできた。少し体が車道にはみ出している。


なにをしようとしているかと見ていると、少年は短い腕を、押しボタンに向かって伸ばした。


「もうボタン押したよ」と教えてあげるが、腕は伸び続ける。
邪魔かなと一步下がってあげた。少年はボタンを押した。
「押したかったんだ」と問うと、少年は誇らしげな顔でうなづいた。

 

 

信号、バスの降車、切符売り場、エレベータ、自動販売機、パソコンのエンターキー…今やそのボタンやスイッチを押すことになんの興奮も緊張もすることはないけれど、少年にとってのそれらは、ちょっとした世界を変えるボタンやスイッチなんだ。

 

すぐに信号は変わりクルマは止まった。人は歩き出した。

彼の小さな指先が確かに小さな世界を変えた。

 

分厚いコートが邪魔になるほど暖かい2月の終わりに出会った光景です。

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