フリーランスはヒマなのだ

フリーランスのお友だち〜本・映画・テレビ・ネット

小松菜奈の魅力から考察するローカル広告制作者のあがき

打ち上げ花火、下から見るか横から見るかの答えが未だ出ていないように、『小松菜奈、可愛いのかそうでもないのか』もなかなかに難しく悩ましい問いかけです。
 
両目の感覚がちょっと広いのかなと思う。
前髪で隠されているが眉毛は太くGEJIGEJIっぽい。
三白眼のせいかどこか眠たそうな目元。
 
しかも笑顔を封印したクール顔は、生き血を求めているヴァンパイアのように妖艶でふらふらと吸い込まれる危険性もあり。
 
 
しかし、なんかいい。
胸元に「にく」とプリントされた白Tをチノパンにインしただけの装いで焼肉を食べるとどうしてこんなにも「ほれ、もっと食え」と言いたくなってしまうのか。てらてらと光る脂ギッシュな口元が許されるのは若さゆえか。
 
 
never young beachの「お別れの歌」はこれ、卑怯なMVだ。
歌がはじまるまで4分近くも小松菜奈を見せられて、歌がはじまってからも延々と小松菜奈づくしでどれだけ寂しい男どもを苦しめれば気が済むのだ。
こんなの演出でもなんでもなく卑怯だが、なんかいい。
「私に支点を与えよ。されば地球を動かしてみせよう」と言ったアルキメデスのように、「私に小松菜奈を与えよ。さえばめっちゃいいMVを作ってみせよう」と、負け惜しみを言いたくなる。
 
 
 
ロッテ乳酸菌ショコラのCMも、これまた卑怯だ。
ただ自転車に乗って吉田羊と、
「乳酸菌はチョコレートで取りたいときに〜取りたいところで〜」と叫びあうだけなのに、いいのだ。
吉田羊に追い抜かれるときの「あ〜」という顔、ふわ〜と空を見上げる顔、振り向いてショコラをかじる顔。
CM自体にはなんのアイデアもないけれど、この3カットがあることで印象度がぜんぜん違う。
 
 
ローカルでこんな企画をノンタレで提案してもGOが出るわけがない。
「それどこがおもしろいの?」と一蹴されて終わり。
タレントというだけで何やってもOKになってしまうところがかないません。
 
なんかいいの「なんか」の答えが明白なのが口惜しい地方の作り手は、
タレント、メジャークライアント、出稿量、音楽、クオリティ高いCG,セット以外で勝負するっきゃない。ちゃんちゃん。

 

その企画、もっと面白くできますよ。

その企画、もっと面白くできますよ。

 

 

パルクール→バブリーダンス→90年代CMパロディ。笑えるって平和だ

「にくたいへん」と打ち込んだら「肉大変」と変換されてしまって正しくは「肉体編」です。

優れた肉体ってそれだけでもう最大のパフォーマンスですね。

都会や空港や氷の世界もいいけど、その舞台を江戸の町にするだけで圧倒的におもしろくカッコよくなる。

 

www.youtube.com

 

江戸の次はぜひとも明治!ということで「明治村」を舞台にやってもらいたいもんです。

市電にSL,監獄に帝国ホテルを明治の偉人に扮して駆け巡れば大注目まちがいなし!です。明治村さんお願いします。

 

 

 

 

「肉大変」もとい「肉体編パート2

すでにご存知の方も多いと思いますが「大阪府立登美丘高校ダンス部」バブリーダンスのPVが出た。

冒頭20秒でまずぶったまげて、あとはもうこれ、うなされます

www.youtube.com

 

こんな自分にも「リゾートマンション買いませんか」としきりに営業が押し寄せていたあの不可解な時代も10代にとっては教科書のなかの単なる歴史の1ページ。彼女たちが真剣に踊れば踊るほど「じいちゃんばあちゃん正気だったの」と問いただされているようでお恥ずかしい。

 

こちらはダンス部の2016年傑作選。見ているだけで楽しくってカッコよくってこのノリはやっぱ大阪だから?

youtu.be

 

 

90年台は、真っ只中ですでに働いていた自分としてはもうお笑いネタになってしまうほど、「過去」なのか。

 

藤井隆さんのニューアルバム「light showers」

90年代の音楽をイメージして作られたらしく、収録曲がCMのタイアップ曲だったらの動画があった。

まさにこんな感じのCM作ってたな〜と振り返って大笑い。でも当時は真剣だったからおかしい。

spotlight-media.jp

『世界を変えるエネルギーは、私たちの中にある。』コールセンターの呼び出し音を変えただけで心は変わる

仕事柄コールセンターの撮影はたまにあります。撮影中にモニターを通して見るオペレーターのやりとりには「大変だな」の感想しかありません。
 
無理難題や理不尽な要求にも、笑顔(の声)で応対しなくちゃいけなく、このリンクの記事にあるように、
「私だって、家では普通のひとりの女性なのに。とても嫌だし、侮辱されているように感じていました」的ストレスは澱(おり)のように溜まり、回復不可能なまでに凝り固まってしまうことでしょう。
 
でも自分がカスタマーの立場でコールセンターに電話する時を思い出すと、電話口の相手を、誰かの家族であることを意識していない、となりゾッとします。
 
 
この動画のクライアント、韓国の石油会社はコールセンターの呼び出し音を音楽からこんな家族の声に変えたそうです。
 
「優しくて、働き者の娘がご案内します。」
「愛する妻が担当させていただきます。」
「世界で一番大好きなママが電話に出ますから、ちょっと待ってくださいね。」
 
すると、オペレーターのストレスは54.2%も軽減し、
また、オペレーターが感じるカスタマーの親切さは8.3%増加、きちんと尊重して扱われているという感覚は25%も増加し、オペレーターの、カスタマーへの期待値も25%増加したそうです。
 
 
コールセンターのカスタマーだけでなく、
子どもの声がうるさいからと近所に公園や保育園建設を反対する人。
赤ん坊の泣き声に顔をしかめる人。
電車内のベビーカーを邪魔者扱いする人。
店員さんへ横柄な態度を取る人。
自然災害で遅延したのに駅員さんに怒鳴る人。
 
 そんな人へ。
この動画の最後は、韓国語ですがこんなコピーで締めくくられています。
『世界を変えるエネルギーは、私たちの中にある。』

 

未来は言葉でつくられる 突破する1行の戦略

未来は言葉でつくられる 突破する1行の戦略

 

 

 

「下北沢ダイハード」を名古屋でやるのなら

下北沢で起きた人生最悪の一日を描いた「下北沢ダイハード」
毎回小劇場劇作家が脚本を書いているということで楽しみに観ている。


なんじゃこれ!とオモシロイのもあれば、見事に外れまくりスベリまくりの回もありで、それはほれ、「テレビ東京ダイハード」って感じです。

www.tv-tokyo.co.jp

 

しかし東京というところは地方人を洗脳させる街ですね。
下北沢も亀有も高円寺も赤羽も、なんとなく「独特の色」ってのが浮かんできてしまいます。どこも行ったことないけどそこを歩けばデジャヴュに頭がくらくらきそうです。

 

 

さて、名古屋に「色」はあるか?
「下北沢ダイハード」のようなドラマを名古屋でやるとしたらいったいどこなのか?

 

大須
円頓寺
今池
どれもピンときません。

 

となると、やはり、あそこしかないでしょう。
結婚する28歳まで生まれ育った、なにもかも闇の彼方に吸い込んでいく限りなく黒に近いあの一帯です。

 


ビックカメラ名鉄ニューグランドホテルのある名古屋駅西口からシネマスコーレを抜けてさらにずっと西に向かうと、そこには怪しげなアーケードがぱっくり口を開けて出迎えてくれます。


西銀座通り


「あそこにはひとりで行っちゃダメ」と、昭和の子どもに夜中のトイレのように恐れられていた、別名「駅裏」です。


駅裏を離れ、ン十年。さすがに今の駅裏は、その闇にいくつか明るい色がついてきたらしいですが、記憶のなかの駅裏はいつどんなときでも闇です。

昭和のあの頃、駅裏の少年たちは、それぞれ小さな懐中電灯を握りしめ、闇に呑み込まれないよう必死で足元を照らし続けていたような気がします。

 

 

 


まだ「中東の某国」の名で呼ばれていた歓楽施設。
通学路のあちらこちらにそれはあり、夏の夕方には店先で水撒きをするビキニ姿のお姉様方がいました。
「ボクたち」が通りかかると、お姉様方は山なりにしたホースの水でミストを作り、「シャワー!」と叫んで振りかけてくれました。さすがにホースの扱いがうまいもんです。

 

 


集団登校の時間に遅れた下級生を家に呼びにいき呼び鈴を鳴らすと、玄関の奥から現れるのは、その子のお父さんでもお母さんでもお祖父さんでもない人でした。
五分刈りの頭に、胸元を大きく開けたシャツを着たそのお兄さん(おじさん)は、こう言うのです。

「おう、ぼっちゃんか。今呼ぶから待っとりや」と。


夏にはそのお兄さん(おじさん)はランニングシャツ姿で現れます。ランニングシャツの白と入れ墨のコントラストは見事です。


でも、入れ墨は珍しくはありません。


内風呂のなかった我が家では銭湯によく行きました。そこで入れ墨は見慣れたものとなっていたからです。ただ父親から小声で「じろじろ見るな」とは言われました。

 


大学時代、コンパだの飲み会だので遅くなった帰り道、駅西銀座通りを歩く場合には、ストーカー恐怖に怯えるお嬢様のように細心の注意が必要です。
薄暗い電柱の陰からお婆さんが音もなく忍び寄ってくるからです。


お婆さんはタバコの吸いすぎで嗄れた声でつぶやくのです。


「おにいさん、若い娘いるよ」
ちょっとお婆さん、お婆さんより若い娘っていくつ?

 

 

駅裏を離れてン十年。いま駅西銀座通りがどうなっているかは知らない。

かなり明るく発展的になっていることでしょう。

でも私のなかの駅西銀座通りはいまだ駅裏のままです。

 


ホルマリン瓶をいっぱい店頭に並べてマムシを売っている店がいまもあるとは思えない。


無雑作に停められた自転車の荷台には、もう猿はいないでしょう。
(知らずに通りかかった時、猿に手を引っかかれた痛いトラウマあります)


酒焼けしたシワだらけのオヤジたちがたむろしていた立ち呑み屋はまだあるかもしれない。


なぜか土俵があった母校・小学校はとっくに合併でなくなってしまった。

 

 

子どもには直接的な関わりはなかったけれど、あの頃駅裏で生きていた大人たちは、毎日がダイハードだったんじゃないだろうかと思う。

 

「駅裏ダイハード」
名古屋でやるならここしかない。

deepannai.info

 

名古屋駅西 喫茶ユトリロ (ハルキ文庫)

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日本の異界 名古屋 (ベスト新書)

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名古屋はヤバイ (ワニブックスPLUS新書)

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攻めまくりのNHK 「ノーナレ」に圧倒される

攻めまくるNHK。その攻めの凄まじさに最近たじたじとなってしまったのがこれ「ノーナレ」。
 
ノーナレとはNo Narration。ナレーションが一切ないドキュメンタリーです。
明日8/21から3日連続で新作2本と過去作品1本の放送があります。
 
新作の「元ヤクザのうどん店」(21日)「町工場機械音✕ミュージック」(22日)も興味津々ですが、3日目再放送の「ミアタリ」(23日)は、初見のとき身震いしたほどの傑作で、みなさん必見です。
 
「ミアタリ」とは指名手配犯を顔写真だけを手がかりに雑踏から見つけ出す大阪府警の「見当たり捜査」のこと。
毎日ひたすら何百枚もの顔写真を見返し、整形しようが髪型変えようが年齢を重ねようが生涯変わることのない目元(眼球)を記憶に刻み込んでいく。
そして歩き見張り、雑踏から一致する人物を発見していく。
 
その姿はストイックにトレーニングを繰り返すアスリートのようで、圧倒的です。
 
 
顔認証システムとかのデジタル技術でも人物特定はできるのだろうけれど、ミアタリと大きく異なるのは、そこに<絶対に捕まえてやる!逃がせへんで!>という使命と執念があるかどうか。
 
密着する見当たり刑事の、「こいつらはみな友だちだ、会いたいんや」なんていう言葉はホントに重く、もし指名手配犯がこのテレビ見てたら絶対に大阪から逃げ出しちゃうに違いなし!
 
 
こういう番組、というか素材には、たしかにナレーションは不要です。
ナレーションはわかりづらいところを説明したり、心情を代わって伝えたりと親切ですが、時にその親切心が仇となり、思考を妨げたりもします。
対して「ノーナレ」は、作り手の主観が押し付けられない分、観る人それぞれが考えなくちゃいけません。
 
「ミアタリ」や「元ヤクザのうどん店」や「ストーカー加害者」(ノーナレで一度放送されたこちらも傑作。今回再放送はないみたい)のような、一般には知らない世界はなるべくならば作り手の主観を排除した客観でまずは触れてみたい。
 
わかり易さが求められるテレビでは、ありそうでなかった画期的な試みです。
ぜひぜひみなさんご覧を。見終わったら語りたくなってしまう、ですぞきっと。
 

 

見当たり捜査官 (双葉文庫)

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刑事眼―伝説の刑事の事件簿?

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「そうして私たちはプールを金魚に、」に抹殺された【いつかきっと】の金魚事件

「プールに金魚を放して一緒に泳げば楽しいと思った」
 
2012年夏、埼玉県狭山市で、4人の女子中学生が夏祭りで余った金魚を譲り受け、学校のプールに放す、という事件が起きました。
 
当時そのニュースに接し、真っ先に頭に浮かんだのは、
青く光るプールに浮かぶ仰向けの女子中学生たちの小さな身体と、その周りを自在に泳ぐ数百匹の金魚、というビジュアルでした。
 
そんな想像が膨らんでしまったらもういけません、この<女子中学生金魚事件>は自分のなかの【いつかきっと】フォルダに保存です。
 
 
いつかきっといつかきっといつかきっと。
 
一年に一回ほどフォルダから引っ張り出してあれこれ想像を走らせますが、大して膨らみもしないまま再びフォルダに保存し直して、またいつかきっといつかきっとと、<女子中学生金魚事件>は熟成の眠りにつきました。
 
 
それから4年後の2016年、ショッキングなニュースが飛び込んできました。
この<女子中学生金魚事件>が映画化されたのです、しかも!サンダンス映画祭ショートフィルム部門グランプリという栄誉とともに。
 
タイトルは、「そうして私たちは金魚をプールに、」
うわ、まんまじゃん。
あまりにもまんま過ぎてもう逃れようありません。
 
自分のなかの<女子中学生金魚事件>は、もうこれで永久にフォルダから出されることはなくなりました。抹殺です。
(忘れた頃の20年後辺りにまた復活するかもしれませんがとりあえず)
 
 
 
こういうときなんて叫べばいい?
先を越された!?
なーんてセリフはどの面さげて言える?言えやしない。先を越されるもなにも、ただ<気になる>と心のなかで思っていただけで、同じスタートラインにさえ立っていなかったのだから。戦いの場に立つことさえしない完全敗北者です。
 
 
 
結局前に進むことのできる人と立ち止まってばかりの人との差はここにあるんでしょうね。
いくら頭ン中に、とんでもないぶったまげる時代を鋭く切り立った、そんな発想が渦巻いててもカタチにしなけりゃ無いと一緒。
いつかきっといつかきっとと思い続けてなにもしなければなにも生まれない。
 
そうこうしている内に、どこかのパワフルな人がカタチにしたら「先越された」「俺も同じこと考えてたんだ」と醜いいいわけを口にするのがオチ。
 
 
見る前に翔べ!
 
分かってます、分かってますって。
分かっていてもやれない人もいるんです、ここに。
もしも〜だったら、〜になったら、〜してからのほうがいいな、と計画だけはしっかり人間。
To Doリストばかり作っては安心しちゃうスケジュール人間。
 
人生本、啓発本にはそんな人たちの背中を押してくれそうなタイトルがズラリと並んでいます。それだけ<行動になかなか移せない>人がいるってことか。
 
読んだあとは「よし!やっぱり!まずは行動!」とその気になるが、結局は邪魔するのは「性格」ってやつ。
 
翔べない者は自分からは翔べない。
周りからそういう状況に追い込められないと翔べない。
仕事だったら、締切や信頼関係や生活のために跳べるんだけどね。
 
 
 
 
で、この映画「そうして私たちは金魚をプールに、」
 
内容もショッキングでした。そうか、こう来たか。
 
演じた子たちがどれだけセリフや行動に共感したかなんて、おそらく監督にしたらどうでもいいこと。
監督の長久氏はインタビューでも「自己満足」と応えているから、俺はこうだ!で押し通しているところが心地よい。
 
 
夏祭りの夜店の木枠の中で窮屈そうに泳ぐ金魚の開放は、狭山という閉塞感たっぷりの街でくすぶる自分たちの開放、と言いように無理やりテーマらしきものを見出すことできるけど、そんなのホントはどうでもいいんだろうな。ただやりたかったことをやった、というだけのような感じで、それでも「私はいま生きている」と。
 
 
およそ20年前の映画「ラブ&ポップ」(庵野秀明)を思い出してしまった。
モノ目線のカメラ、モノローグ、強引奈カット割りと編集、そしてなんといってもラストの4人歩きの正面受けドリー。
意識したのかどうかは知りませんが「ラブ&ポップ」の匂いがプンプンしてきてまた見直そうという気分です。

 

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映画「リトル・フォレスト」のなんかいいを考え続けたらこのコトバが降りてきた

企画に思い悩んだ時たまに読み直す本に『広告コピーってこう書くんだ!読本』(谷山雅計)があって、その冒頭にこんなことが書いてあります。

 
 
モノの作り手となるためには「なんかいいよね」を禁止せよ。
受け手は「なんかいいよね」「なんかステキよね」と言い続け、作り手は「なぜいいのか、これこれこうだからじゃないか」と考え続ける、と。

 

 
自分も作り手の片隅にいる人間として、「なんかいい」だけで終わらせないようにしてきたつもりですが、考え続けてもぐるっと一周回って「な〜んかいい〜」に落ち着いてしまう不思議な映画があります。
 
マンガが原作の、
「リトル・フォレスト夏・秋」
「リトル・フォレスト冬・春」

 

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リトル・フォレスト 冬・春 [Blu-ray]

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自然に囲まれた岩手の集落で、独り暮らす女性(橋本愛)の、一年の物語です。
2本あるのは劇場公開が2回に分かれていたからで、実際には春夏秋冬それぞれ1時間ほどの4部作です。
 
農作業をして、収穫して、調理して、食べて、また農作業をしてという「営み」が、季節の移り変わりのなかで繰り返し描かれる、ただそれだけの映画です。
 
退屈といえば退屈。変化がないといえば変化はない。
でもね、これが「なんかいい」んです。
 
 
橋本愛の力を抜いた語り(モノローグ)が「なんかいい」。
遠慮がちに忍び込んでくる宮内優里という人の音楽が「なんかいい」。
しっかりと聴こえる生活の音が「なんかいい」。
季節をしっかり捉えた映像が「なんかいい」。
次々と出てくる食が「なんかいい」。
セリフは少ないが時おりのセリフの重みが「なんかいい」。
 
いくつかの「なんか」を味わうために何回も観たくなってしまうんです。
今だってこれを書きながらバックグランドではAmazonビデオで観てます(聴いてます)。
 
 
一応ね、映画ですから、橋本愛の母親が突然失踪したとか、都会で暮らしていたけれど結局故郷の集落に戻ってきて今は独り暮らしとか、仕事先での小さな母性愛や不平とかあるにはありますが、深掘りはしません。
物語として深掘りしない代わりに、橋本愛が心を語り、すぐに農作業と調理の「営み」へと戻っていくのです。
 
 
そんな映画らしい醍醐味や変化や外連もないのに、この映画をいいと思う「なんか」とは何か?
考えてみました。
すると、ひとつのコトバがすとんと降りてきました。
 
 
 
そのコトバとはこれ、「丁寧」
 
 
 
東北の四季のなかで生きていくために必要な、営みとしての「丁寧」。
繰り返される毎日のなかで語られる心の変化の「丁寧」。
その丁寧を時間をかけてカタチにした、映画制作(撮影と演出)としての「丁寧」。
 
自然相手だからままならぬこともあったかと思いますが、それでもすべてのカットに「丁寧」を感じてしまいます。
 
「この作品は丁寧に撮ろう」
そんな制作陣の合言葉が聞こえてくるようです。
 
 
 
 
この作品の場合、脚本の位置づけはどこにあったのかも気になります。
 
例えば、「冬・春編」のなかに、こんなシーンがあります。
 
 
吹雪の映像に、橋本愛のモノローグがダブります。
「冬の終わりにはきまって嵐が来る。その日は吹雪と春の光がめまぐるしく入れかわる大嵐で」「青い光と黒雲にまっぷたつに割れた空を見た」
 
映像は、左に黒雲、右に青空という空を見上げている橋本愛の後ろ姿。
 
脚本にこんなモノローグを書いたとして、空がそんな思った通りに現れるとは限りません。撮影が先で脚本が後としか思えないシーンです。
 
 
 
他にもきまぐれな自然の映像と、その自然を描写するモノローグがいくつか出てきます。
想定に基づく脚本と偶然に感謝する後追いの文章。
豊作となるか凶作となるか、映像制作のプロセスそのものが天候に左右される収穫のようで、制作陣の一喜一憂が目に浮かびます。
 
 
 
 
実際にこの映画のような営みをしている人は「現実はこんなもんじゃない」もあるかもしれませんが、田舎暮らし経験のない自分には、ここで描かれているすべてが興味深くリアルです。
 
冬のために薪割りをし、作物を保存し、面倒だからとひと手間を省いてしまうと、必要な時に(おおげさでなく)生きていけなくなってしまう。
あ、足りない、ちょっとコンビニで買ってくるわ、なんてできません。
 
 
 
語られるセリフもリアルであるがため、重い。
 
例えば橋本愛の後輩の男性ユウタ(三浦貴文〜山口百恵ちゃんの息子)は、街に出て集落に戻ってきたという設定で、なぜ戻ってきたかと問う橋本愛に対しこんなことをいいます。
 
「方言じゃなく、こことあっちでは話しているコトバが違う。何にもしたことがないくせになんでも知ってるつもりで、他人が作ったものを右から左に移してるだけの奴ほど威張ってる、薄っぺらな人間の空っぽなコトバを聞かされるのにうんざりした。(こっちの人たちは)中身のあるコトバ話せる生き方してきたんだなって」
 
薄っぺらな人間の空っぽなコトバって、俺のことか?と痛い。痛い。
 
 
 
 
 
映画としてすごく「いい」し、宝物のように何度も見返したくなりますが、じゃあ同じような生活してみたいか、となるとそれとこれは別。
できないししたくない。
 
誰かが育て収穫して殺して加工したものばかり口に入れてきた身としては、この映画の集落に住まざるを得なくなったとしたら3日で餓死してしまうでしょう。
それよりもなによりも、この映画に満ち溢れている「丁寧」とは縁遠い毎日を送っているから、「営み」のほうから拒否されてしまいます。
 
 
今の自分は、長い歳月をかけてなにかを育てる根気のようなものはこの身体の中からはもう湧き出てこないし、ひと手間かければ美味しくなるのにそのひと手間さえ待てない時間間隔に取り憑かれてしまっている。
だからこそ逆に、「丁寧さ」に対して憧れのような感情を感じてしまい、「なんかいい」となってしまったのかも。
 
 
 
 
 
でもね、当事者として入り込めないけれど、通りすがりの部外者としてこんな映画(作品)を作ってみたいという身勝手な願望はあるのです。
 
でも難しいだろうな。
どうしても入れたくなってしまう、成長や変化や恋愛や、そんなこんなを捨て去って削ぎ取って、それでも最後に残る上澄みを「いいもの」だと信じる信念みたいなものがいるから。
それは計算で生み出すのか感覚から生み出されるのか、まったく謎です。自分を信じるしかないけれど、そのためには信じられる自分、があるかどうか、に立ち戻ってしまいます。
 
 
「なんかいいよね禁止」とはいうものの、受け手に「なんか」わからないけど「いい」と思ってもらうのは、ホント難しい。
 
そうか、だから「なぜいいのか、これこれこうだからじゃないか」と考え続けなきゃいけないのか。
 

 

広告コピーってこう書くんだ!読本

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リトル・フォレスト(1) (ワイドKC アフタヌーン)

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リトル・フォレスト(2) (ワイドKC アフタヌーン)

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全国でお悩みの福田さん原田さん高田さん山崎さんのたかだかさかざか問題

「た」だと思っていたら「だ」だった。
「ざ」だと思っていたら「さ」だった。
 
「た」か「だ」か「さ」か「ざ」か?の「たかだかさかざか問題」
 
全国の福田さん原田さん高田さん山崎さん、あなたはどちらですか。
 
 
メンドくさいでしょ、自己紹介や名刺交換の時、「た」や「さ」を強調するのは。
紹介を受けたほうは、「だ、じゃなくて、た、なんですね」とか言って納得するんですが、いい加減なもので次会ったときはするっとまた濁点つけて「ふくださん」「はらださん」「たかださん」て呼んじゃってます。ごめんなさい。
 
 
しかしこの「田」はクセモノです。
濁点ありなしが(法則・規則あるのかないのか)混在しています。
 
例えば高田さん。
「これもおつけしますさらにこれもおつけします」とかいいながらもジャパネットさんには「濁点はおつきしていません」
「テキトーなんだよ」といいながらの純次さんにはしっかり「濁点ついてます」
 
 
 
「田」がつかない名前の者にとっては、この<たかだかさかざか問題>は、たかだか「た」か「だ」か「さ」か「ざ」かどっち?というだけのことで大きな影響はないのですが、名前、特に姓名に注目するとオモシロイことがいろいろと見えてきます。
 
結婚です。日本は夫婦同氏の原則で多くが夫の姓で同氏となるから、姓名の相性というのがこれまた難しい。
 
 
マキさんが原さんと結婚すると、「はらまき」さん。
エリさんと岡さんの場合は、「おかえり」さん。
マリさんと水田さんの場合は、「みずたまり」さん。
 
文さんが原さんと結婚したら「原文さん」となり、その「原文さん」のお母さんは「原文のママ」となって、なにやら引用文のようで、強調の傍点がつきそう。
 
でもって、
尾美さんとアイさんが結婚したら披露宴の挨拶で親戚の酔っ払ったおっさんが言うんだろうな。
 
「新婦のアイさんは、これから「おみあいさん」になるわけですが、馴れ初めはけっしてお見合いではなく、熱烈なる恋愛だったのです。ガハハ」とか。
 
 
そんなこんなの下らないこと書いてたら、傍らのテレビで誰かが母親を紹介している音声が聞こえてきました。
 
「紹介します、母のレイです」
 
えー!母の霊?!
お盆にはまだ早すぎる。

 

 

日本人の苗字―三〇万姓の調査から見えたこと (光文社新書)

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