フリーランスはヒマなのだ

フリーランスのお友だち〜本・映画・テレビ・ネット

「そうして私たちはプールを金魚に、」に抹殺された【いつかきっと】の金魚事件

「プールに金魚を放して一緒に泳げば楽しいと思った」
 
2012年夏、埼玉県狭山市で、4人の女子中学生が夏祭りで余った金魚を譲り受け、学校のプールに放す、という事件が起きました。
 
当時そのニュースに接し、真っ先に頭に浮かんだのは、
青く光るプールに浮かぶ仰向けの女子中学生たちの小さな身体と、その周りを自在に泳ぐ数百匹の金魚、というビジュアルでした。
 
そんな想像が膨らんでしまったらもういけません、この<女子中学生金魚事件>は自分のなかの【いつかきっと】フォルダに保存です。
 
 
いつかきっといつかきっといつかきっと。
 
一年に一回ほどフォルダから引っ張り出してあれこれ想像を走らせますが、大して膨らみもしないまま再びフォルダに保存し直して、またいつかきっといつかきっとと、<女子中学生金魚事件>は熟成の眠りにつきました。
 
 
それから4年後の2016年、ショッキングなニュースが飛び込んできました。
この<女子中学生金魚事件>が映画化されたのです、しかも!サンダンス映画祭ショートフィルム部門グランプリという栄誉とともに。
 
タイトルは、「そうして私たちは金魚をプールに、」
うわ、まんまじゃん。
あまりにもまんま過ぎてもう逃れようありません。
 
自分のなかの<女子中学生金魚事件>は、もうこれで永久にフォルダから出されることはなくなりました。抹殺です。
(忘れた頃の20年後辺りにまた復活するかもしれませんがとりあえず)
 
 
 
こういうときなんて叫べばいい?
先を越された!?
なーんてセリフはどの面さげて言える?言えやしない。先を越されるもなにも、ただ<気になる>と心のなかで思っていただけで、同じスタートラインにさえ立っていなかったのだから。戦いの場に立つことさえしない完全敗北者です。
 
 
 
結局前に進むことのできる人と立ち止まってばかりの人との差はここにあるんでしょうね。
いくら頭ン中に、とんでもないぶったまげる時代を鋭く切り立った、そんな発想が渦巻いててもカタチにしなけりゃ無いと一緒。
いつかきっといつかきっとと思い続けてなにもしなければなにも生まれない。
 
そうこうしている内に、どこかのパワフルな人がカタチにしたら「先越された」「俺も同じこと考えてたんだ」と醜いいいわけを口にするのがオチ。
 
 
見る前に翔べ!
 
分かってます、分かってますって。
分かっていてもやれない人もいるんです、ここに。
もしも〜だったら、〜になったら、〜してからのほうがいいな、と計画だけはしっかり人間。
To Doリストばかり作っては安心しちゃうスケジュール人間。
 
人生本、啓発本にはそんな人たちの背中を押してくれそうなタイトルがズラリと並んでいます。それだけ<行動になかなか移せない>人がいるってことか。
 
読んだあとは「よし!やっぱり!まずは行動!」とその気になるが、結局は邪魔するのは「性格」ってやつ。
 
翔べない者は自分からは翔べない。
周りからそういう状況に追い込められないと翔べない。
仕事だったら、締切や信頼関係や生活のために跳べるんだけどね。
 
 
 
 
で、この映画「そうして私たちは金魚をプールに、」
 
内容もショッキングでした。そうか、こう来たか。
 
演じた子たちがどれだけセリフや行動に共感したかなんて、おそらく監督にしたらどうでもいいこと。
監督の長久氏はインタビューでも「自己満足」と応えているから、俺はこうだ!で押し通しているところが心地よい。
 
 
夏祭りの夜店の木枠の中で窮屈そうに泳ぐ金魚の開放は、狭山という閉塞感たっぷりの街でくすぶる自分たちの開放、と言いように無理やりテーマらしきものを見出すことできるけど、そんなのホントはどうでもいいんだろうな。ただやりたかったことをやった、というだけのような感じで、それでも「私はいま生きている」と。
 
 
およそ20年前の映画「ラブ&ポップ」(庵野秀明)を思い出してしまった。
モノ目線のカメラ、モノローグ、強引奈カット割りと編集、そしてなんといってもラストの4人歩きの正面受けドリー。
意識したのかどうかは知りませんが「ラブ&ポップ」の匂いがプンプンしてきてまた見直そうという気分です。

 

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映画「リトル・フォレスト」のなんかいいを考え続けたらこのコトバが降りてきた

企画に思い悩んだ時たまに読み直す本に『広告コピーってこう書くんだ!読本』(谷山雅計)があって、その冒頭にこんなことが書いてあります。

 
 
モノの作り手となるためには「なんかいいよね」を禁止せよ。
受け手は「なんかいいよね」「なんかステキよね」と言い続け、作り手は「なぜいいのか、これこれこうだからじゃないか」と考え続ける、と。

 

 
自分も作り手の片隅にいる人間として、「なんかいい」だけで終わらせないようにしてきたつもりですが、考え続けてもぐるっと一周回って「な〜んかいい〜」に落ち着いてしまう不思議な映画があります。
 
マンガが原作の、
「リトル・フォレスト夏・秋」
「リトル・フォレスト冬・春」

 

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リトル・フォレスト 冬・春 [Blu-ray]

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自然に囲まれた岩手の集落で、独り暮らす女性(橋本愛)の、一年の物語です。
2本あるのは劇場公開が2回に分かれていたからで、実際には春夏秋冬それぞれ1時間ほどの4部作です。
 
農作業をして、収穫して、調理して、食べて、また農作業をしてという「営み」が、季節の移り変わりのなかで繰り返し描かれる、ただそれだけの映画です。
 
退屈といえば退屈。変化がないといえば変化はない。
でもね、これが「なんかいい」んです。
 
 
橋本愛の力を抜いた語り(モノローグ)が「なんかいい」。
遠慮がちに忍び込んでくる宮内優里という人の音楽が「なんかいい」。
しっかりと聴こえる生活の音が「なんかいい」。
季節をしっかり捉えた映像が「なんかいい」。
次々と出てくる食が「なんかいい」。
セリフは少ないが時おりのセリフの重みが「なんかいい」。
 
いくつかの「なんか」を味わうために何回も観たくなってしまうんです。
今だってこれを書きながらバックグランドではAmazonビデオで観てます(聴いてます)。
 
 
一応ね、映画ですから、橋本愛の母親が突然失踪したとか、都会で暮らしていたけれど結局故郷の集落に戻ってきて今は独り暮らしとか、仕事先での小さな母性愛や不平とかあるにはありますが、深掘りはしません。
物語として深掘りしない代わりに、橋本愛が心を語り、すぐに農作業と調理の「営み」へと戻っていくのです。
 
 
そんな映画らしい醍醐味や変化や外連もないのに、この映画をいいと思う「なんか」とは何か?
考えてみました。
すると、ひとつのコトバがすとんと降りてきました。
 
 
 
そのコトバとはこれ、「丁寧」
 
 
 
東北の四季のなかで生きていくために必要な、営みとしての「丁寧」。
繰り返される毎日のなかで語られる心の変化の「丁寧」。
その丁寧を時間をかけてカタチにした、映画制作(撮影と演出)としての「丁寧」。
 
自然相手だからままならぬこともあったかと思いますが、それでもすべてのカットに「丁寧」を感じてしまいます。
 
「この作品は丁寧に撮ろう」
そんな制作陣の合言葉が聞こえてくるようです。
 
 
 
 
この作品の場合、脚本の位置づけはどこにあったのかも気になります。
 
例えば、「冬・春編」のなかに、こんなシーンがあります。
 
 
吹雪の映像に、橋本愛のモノローグがダブります。
「冬の終わりにはきまって嵐が来る。その日は吹雪と春の光がめまぐるしく入れかわる大嵐で」「青い光と黒雲にまっぷたつに割れた空を見た」
 
映像は、左に黒雲、右に青空という空を見上げている橋本愛の後ろ姿。
 
脚本にこんなモノローグを書いたとして、空がそんな思った通りに現れるとは限りません。撮影が先で脚本が後としか思えないシーンです。
 
 
 
他にもきまぐれな自然の映像と、その自然を描写するモノローグがいくつか出てきます。
想定に基づく脚本と偶然に感謝する後追いの文章。
豊作となるか凶作となるか、映像制作のプロセスそのものが天候に左右される収穫のようで、制作陣の一喜一憂が目に浮かびます。
 
 
 
 
実際にこの映画のような営みをしている人は「現実はこんなもんじゃない」もあるかもしれませんが、田舎暮らし経験のない自分には、ここで描かれているすべてが興味深くリアルです。
 
冬のために薪割りをし、作物を保存し、面倒だからとひと手間を省いてしまうと、必要な時に(おおげさでなく)生きていけなくなってしまう。
あ、足りない、ちょっとコンビニで買ってくるわ、なんてできません。
 
 
 
語られるセリフもリアルであるがため、重い。
 
例えば橋本愛の後輩の男性ユウタ(三浦貴文〜山口百恵ちゃんの息子)は、街に出て集落に戻ってきたという設定で、なぜ戻ってきたかと問う橋本愛に対しこんなことをいいます。
 
「方言じゃなく、こことあっちでは話しているコトバが違う。何にもしたことがないくせになんでも知ってるつもりで、他人が作ったものを右から左に移してるだけの奴ほど威張ってる、薄っぺらな人間の空っぽなコトバを聞かされるのにうんざりした。(こっちの人たちは)中身のあるコトバ話せる生き方してきたんだなって」
 
薄っぺらな人間の空っぽなコトバって、俺のことか?と痛い。痛い。
 
 
 
 
 
映画としてすごく「いい」し、宝物のように何度も見返したくなりますが、じゃあ同じような生活してみたいか、となるとそれとこれは別。
できないししたくない。
 
誰かが育て収穫して殺して加工したものばかり口に入れてきた身としては、この映画の集落に住まざるを得なくなったとしたら3日で餓死してしまうでしょう。
それよりもなによりも、この映画に満ち溢れている「丁寧」とは縁遠い毎日を送っているから、「営み」のほうから拒否されてしまいます。
 
 
今の自分は、長い歳月をかけてなにかを育てる根気のようなものはこの身体の中からはもう湧き出てこないし、ひと手間かければ美味しくなるのにそのひと手間さえ待てない時間間隔に取り憑かれてしまっている。
だからこそ逆に、「丁寧さ」に対して憧れのような感情を感じてしまい、「なんかいい」となってしまったのかも。
 
 
 
 
 
でもね、当事者として入り込めないけれど、通りすがりの部外者としてこんな映画(作品)を作ってみたいという身勝手な願望はあるのです。
 
でも難しいだろうな。
どうしても入れたくなってしまう、成長や変化や恋愛や、そんなこんなを捨て去って削ぎ取って、それでも最後に残る上澄みを「いいもの」だと信じる信念みたいなものがいるから。
それは計算で生み出すのか感覚から生み出されるのか、まったく謎です。自分を信じるしかないけれど、そのためには信じられる自分、があるかどうか、に立ち戻ってしまいます。
 
 
「なんかいいよね禁止」とはいうものの、受け手に「なんか」わからないけど「いい」と思ってもらうのは、ホント難しい。
 
そうか、だから「なぜいいのか、これこれこうだからじゃないか」と考え続けなきゃいけないのか。
 

 

広告コピーってこう書くんだ!読本

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リトル・フォレスト(1) (ワイドKC アフタヌーン)

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リトル・フォレスト(2) (ワイドKC アフタヌーン)

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全国でお悩みの福田さん原田さん高田さん山崎さんのたかだかさかざか問題

「た」だと思っていたら「だ」だった。
「ざ」だと思っていたら「さ」だった。
 
「た」か「だ」か「さ」か「ざ」か?の「たかだかさかざか問題」
 
全国の福田さん原田さん高田さん山崎さん、あなたはどちらですか。
 
 
メンドくさいでしょ、自己紹介や名刺交換の時、「た」や「さ」を強調するのは。
紹介を受けたほうは、「だ、じゃなくて、た、なんですね」とか言って納得するんですが、いい加減なもので次会ったときはするっとまた濁点つけて「ふくださん」「はらださん」「たかださん」て呼んじゃってます。ごめんなさい。
 
 
しかしこの「田」はクセモノです。
濁点ありなしが(法則・規則あるのかないのか)混在しています。
 
例えば高田さん。
「これもおつけしますさらにこれもおつけします」とかいいながらもジャパネットさんには「濁点はおつきしていません」
「テキトーなんだよ」といいながらの純次さんにはしっかり「濁点ついてます」
 
 
 
「田」がつかない名前の者にとっては、この<たかだかさかざか問題>は、たかだか「た」か「だ」か「さ」か「ざ」かどっち?というだけのことで大きな影響はないのですが、名前、特に姓名に注目するとオモシロイことがいろいろと見えてきます。
 
結婚です。日本は夫婦同氏の原則で多くが夫の姓で同氏となるから、姓名の相性というのがこれまた難しい。
 
 
マキさんが原さんと結婚すると、「はらまき」さん。
エリさんと岡さんの場合は、「おかえり」さん。
マリさんと水田さんの場合は、「みずたまり」さん。
 
文さんが原さんと結婚したら「原文さん」となり、その「原文さん」のお母さんは「原文のママ」となって、なにやら引用文のようで、強調の傍点がつきそう。
 
でもって、
尾美さんとアイさんが結婚したら披露宴の挨拶で親戚の酔っ払ったおっさんが言うんだろうな。
 
「新婦のアイさんは、これから「おみあいさん」になるわけですが、馴れ初めはけっしてお見合いではなく、熱烈なる恋愛だったのです。ガハハ」とか。
 
 
そんなこんなの下らないこと書いてたら、傍らのテレビで誰かが母親を紹介している音声が聞こえてきました。
 
「紹介します、母のレイです」
 
えー!母の霊?!
お盆にはまだ早すぎる。

 

 

日本人の苗字―三〇万姓の調査から見えたこと (光文社新書)

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ミシェル・ゴンドリー✕iPhone7 こういうのを観ると‥

「Détour」というのは「寄り道」という意味だそうで、目的からちょっと外れた寄り道感覚で撮るにはiPhoneがとても良く似合います。
 
とはいうもののミシェル・ゴンドリーですから、シンプルな中にもな〜んかふわっと違和感のような、不安感のような、フツーじゃないぞ感が漂っていてついつい最後まで見てしまいます。
本編だけじゃなくiPhoneによる撮影方法いろいろも「知ってるわ〜」とすっ飛ばさず見続けさせてしまう、まさに寄り道力。
こういうのを観ると「よし、今度iPhoneで撮ろう」となりがちですが、この動画はiPhoneの動画だからiPhoneであって、それをそのまま水平思考でiPhoneである意味のない作品に「iPhoneで撮りましょう」となると、「なんでiPhone?お金取れないじゃん」という総ツッコミをくらうことになり、それでも!をくつがえす企画と演出が必要です。
 
 
1番よくないのはiPhoneである意味ないのに「この作品は全編iPhoneで撮影しました」をウリにしちゃうことで、「内緒ですが実はこれiPhoneで撮ったんです」と小さな声で聞こえないようにつぶやくほうがカッコイイ。
 
 
そんなことをいいながらも作り手としては一度全編iPhoneてのもチャレンジしたい気持ちがあるのはホントで、そのための「満を持して」を探し求めるいますがなかなかにこれぞ!というのが見つからない。
 
案外「予算ないならiPhoneで撮りましょか」が1番の「近道」かもしれませんね。へんに「寄り道」するよりは。
 
 

あの時なにもしなかったからせめて知るだけでもと、「アリガト謝謝」

2011年4月109億円。2011年5月上旬160億円。そして最終的には200億円を突破。
東日本大震災に対する、台湾から日本への義捐金です。
世界最大の金額だったにも関わらず、世界6カ国7紙に掲載した、感謝を表す日本政府のメッセージ広告は台湾には行われませんでした。
 
それを知った日本のある広告デザイナーは疑問を感じます。
「なぜ台湾が入っていないの」
 
彼女は、じゃあ台湾の新聞に感謝広告を出そう、と思いたち、『謝謝台湾計画』なるものを1人ではじめます。
今だったらクラウドファンディングとなるのでしょうが、当時はまだそれほど?だったのか、Twitterとブログで賛同者を募り、最終的に1900万円もの寄付を集めました。
そして2011年5月に、台湾の主要2紙に「ありがとう、台湾」の広告を掲載させたのです。
 
当時、なーんとなくこの出来事は知っていました。でも、日本にとって複雑な事情のある場所だからか、テレビや新聞ではこのことをあまり報道していなかった記憶があります。触れたニュースや記事はネット上のものだったような気もしています。
 
で、この出来事をベースとした小説が出版されました。フィクションとしていますが、基本は事実でしょう。
 
アリガト謝謝

アリガト謝謝

 

 

なかのセリフにこんなのがあります。
「(政府の事情)とはまったく関係のない人の愛とか心とか、こういうものって理屈じゃないと思うんですよね。だからこそ思いがけない大きな力になったりもするんだと思います」
 
3章構成になっていて、第2章は台湾の様々な地域、人、団体が募金をはじめていく様子が描かれています。取材に基づいたフィクションでしょうが、台湾の方々の日本に対する思いにちょっとウルッときてしまいました。
 
2011年に募金も活動もなにもしなかった男の、おすすめの一冊です。

新海誠は100パーセントの女の子を見つけたか

君の名は。」を観終わった後、なんか引っかかるものがあって、その正体はなんだろうと記憶の端っこを探してみたら、ああ、ありました。
 
 
村上春樹の初期の短編に「四月のある晴れた朝に100パーセントの女の子に出会うことについて」というのがあります。
 
100%の恋人同士が、本当にお互い100%だったならば、再び何処かで巡り会えるに違いない試してみようと一旦別れます。ところが別々に暮らしている間に悪性のインフルエンザにかかり二人は記憶喪失になってしまいます。何十年か後、二人は互いの記憶がないまま偶然原宿ですれ違うという話です。

 

カンガルー日和 (講談社文庫)

カンガルー日和 (講談社文庫)

 
「象の消滅」 短篇選集 1980-1991

「象の消滅」 短篇選集 1980-1991

 

 

新海誠の作品って、その多くが村上春樹のこの「100パーセントの女の子」がベースにあるんじゃないかな。
 
 
2007年の「秒速5センチメートル」は、記憶喪失ではないけれど、山崎まさよしの、~いつでも探しているよどこかで君の姿を~命が繰り返すならば何度も君のもとへ~の「One more time ,One more chance」がテーマ曲であるように、出会えそうで出会えない二人が描かれています。
 

 
 
2014年の「クロスロード」(Z会の120秒コマーシャル)は、東京と離島に暮らす全く接点ない高校生の男女の生活が交互に描かれます。まさに「君の名は。」の構図そのものです。
(この120秒コマーシャルのコマーシャルとして見事なところは、自身の一貫したテーマをZ会の添削採点者にセリフで言わせているところです。つまりこの不思議な世界に隠された素晴らしきところをクライアントに語らせ、花を持たせている点です)
 
「クロスロード」は120秒なので別々の生活をする二人が出会うのはラスト一瞬ですが、互いが100パーセントであることの予感を示しています。
 

 
 
 
新海誠は、こうやって100パーセントの女の子的な世界を描き続けてきて、ついに「君の名は。」で、エンタテインメント(商業映画)の形を借りてすべての落とし前をつけたのでは、と思うのです。(落とし前つけたのかどうなのかは、次どんなテーマで映画を作るのかでわかります。)
 
 
君の名は。」は、よくよく突き詰めてみると疑問や矛盾がいっぱいです。
それでも、映像のキレイさと音楽の良さと、そしてそして「みんな大好き運命」の力によって最後まで強引に突っ走って一気に感情を高めてくれています。
 
 
ヒットの理由はひとつじゃないと思うけれど、やはりどこかしら理屈じゃない運命的なものの存在~<今はまだ><でもいつか><どこかで誰かが><ひょっとして記憶にないだけですでに><きっとわたしにも100パーセントが>~が多く人の心に響いちゃったからじゃないかと、おじさんは思うのです。

「蜂蜜と遠雷」を読んで。文章が「音」に「音たち」に変わる魔法の小説

上下2段500ページ超えの最初の1ページを開くタイミングは、難しい。下手にハマってしまうと抜け出せなくなってしまうから。
特に今週は撮影が続くから手を出すのは極めて危険。と、そんなとき、
天候の問題で撮影延期の連絡が。プレゼントのようなこの時間が、そのタイミングです。
  
役者の天才とその演技を文章で表現した「チョコレートコスモス」、そしてこの、天才たちの演奏を文章で描き分けた「蜂蜜と遠雷」
恩田陸という人は天才を描く天才ですね。

 

蜜蜂と遠雷

蜜蜂と遠雷

 

 

この小説、ただ数日間のコンクールに出場する数名の演奏者とその演奏を書いただけのシンプルなストーリー。
 
実はまだ読み終わっておらず途中なので、もしかして違うかもしれませんが、おそらくライバルの戦い、恋愛への発展、とんでもない謎、なんてものは今後出てこなさそうです。
なのになぜ、ぐいぐい引き込まれていくのか。
 
電車で読んでてても部屋で読んでてもトイレにこもって読んでても、そこがどんな場所であろうとも、いつの間にか舞台であるコンクール会場の真っ只中へと変わるのです。
 
目で見る単語が熟語が文章が、突然「音」に変わり、「音たち」となり、さらには「音
たちの重なり深まり」へと増大して四方八方から襲いかかってくるのです。
 
しかも、1次予選から2次、3次、そして本選と、登場する曲すべてでその表現を変えるだけでなく、演奏者のキャラクターを含めた表現となって描き分けられているのです。そんな。なんという。無謀で。自信に満ちた挑戦。恐ろしい。
この小説は、アートです。
 
 
 
「蜂蜜と遠雷」を読んでいて思い出した事があります。
視覚障害者による絵画鑑賞です。見えない人に、見える人が、今目の前にある絵画を言葉で語り伝える鑑賞法です。(伊藤亜紗「目の見えない人は世界をどう見ているか」より) 
目の見えない人は世界をどう見ているのか (光文社新書)
 
見える人が語るのは、目の前にある絵の大きさ、カタチ、色、モチーフなど目に「見えるもの」と、もうひとつ、見ている人にしかわからないもの、思ったこと、印象、思い出したことなど主観的な「見えないもの」。
 
 
この鑑賞方法によって「見える人」と「見えない人」双方に新しい発見が生まれるといいます。
 
「見える人」にとっては、人に語るためによく見る、神経を集中させる、自分に問いかける、解釈を巡らせるなど。
それによってただ自分ひとりで鑑賞している以上の発見が生まれます。
 
「見えない人」にとっては、語られる断片をもとに頭のなかで組み立てていき、推理し、脳裡には再構築された自分だけの絵画が生まれます。
 
 
ひとりだけの世界に閉じこもって鑑賞と異なり、互いに言葉をかわすことによって「見える人」も「見えない人」も情報の再発見と修正や補正をを行うおもしろさもあります。
 
 
どんな人が語ろうと目の前に飾られた絵が変わることはありません。
それは確かにそこにあるひとつの事実です。
 
でも、語ることで解釈し直すことで見つめ直すことでどんどんと人それぞれの中で絵画は変っていきます。
 
 
 
音楽もそうなのかもしれません。
 
楽譜に書かれた事実は変わらない。でも、演奏者がどんな解釈をそれに施すかによって音は全く異なって生まれ変わる。といいます。
 
でも、悲しいかな、(特にクラシックの)音楽鑑賞力に疎い自分にはその違いはわからず、単純に好き嫌いでしか判断できません。
なかなか一般にはわかりづらいその差異を文章で表現してくれているのがこの「蜂蜜と遠雷」です。
 
 
これが実際のコンクールの会場ならば、演奏された曲を聴いてすべてを理解するしかありません。
でも小説ならば、演奏者の個性(キャラクター)を作り分け詳細に書き込むことができます。
 
徹底的に作り込まれた書かれた演奏者個々のキャラクターがあるから、読む人は勝手に、多分この人はこんな演奏するんだろうな、と人物像をイメージしてくれる。
演奏の描き分けを際立たせるバックボーンとしてのキャラクターの書き分けがあるから演奏の描き分けの説得力が増してくるのでしょう。
 
 
 
先程の視覚障害者の話にこんなエピソードがあります。
視覚障害者の人が紅茶を飲んでいる。陶器製のカップで飲んでいる。でも、その人はそのカップをガラス製だと思っている。
目の見える人が「それは陶器のカップ」だと伝えてあげると、その瞬間、その人のなかでガラス製だったカップが、突然魔法のように陶器に変わるそうです。
その視覚障害の人は中途失明だから、陶器もガラスも知っている。透明不透明という概念も知っている。
ガラスが陶器に変わった瞬間、透明だったカップが不透明にも変わるそうです。
情報が事実を変えてしまう。
 
 
 
これを小説に置き換えると、その情報がキャラクターではないかと思います。
この人はこういう生まれでこういう育ちでこういう境遇でこうした音楽への取り組みをしてきた、という丁寧な書き込みがあることで、読む人はその人が奏でる音楽の世界観と迫力を勝手に創り上げてしまうのでしょう。
 
「蜂蜜と遠雷」は、そんな計算に基づいた恐ろしい小説ではないかとも思えるのです。

 

チョコレートコスモス (角川文庫)

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「このハゲ!」と叫んだ女性政治家を笑う300年後の未来人たち

今日は朝っぱらからおっそろしく不快な声を何度も耳にしてしまいました。
有形無形の温かい支持が何よりも必要な、議員ともあろう人が、いわゆる「頭髪の乏しい」状態の人たちを一斉に敵に回してしまいましたね。
 
身から出た錆とはいえ、この時代、ICレコーダー、ドライブレコーダー、防犯カメラ、スマホと、公私問わず起きることの多数が記録されているかもと心しなくちゃ。議員さんなら特に。
 
 
記者会見は行われるのでしょうか、あ、もちろん暴言の主のほうですよ、誰ですか「このハゲ」と罵られた秘書を見たい、なんて言っているのは。そんなのダメですよホント。
 
 
と、怒られないうちに話を変えて、こんな短歌があります。
 
 
【かなしきはスター・トレック 三百年のちにもハゲは解決されず】
(松木秀)

 

5メートルほどの果てしなさ オンデマンド版

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宇宙空間を自由に旅し、地球上では人工知能どころか2017年に生きる私たちには想像もできないあらゆる進化を遂げているであろう300年後の新スター・トレックの世界では、まだハゲはハゲのまま何も解決されず、ある、らしい。

 

新スター・トレック シーズン1<トク選BOX> [DVD]

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未来にはいったい何が進化していて何が変わらないのか。
歌人でエッセイストの穂村弘さんは、進化のスピードにはムラがあると書いています。(「野良猫を尊敬した日」)

 

野良猫を尊敬した日

野良猫を尊敬した日

 

 

ハイスピード進化の筆頭は、携帯電話。
ちょっと前のドラマだけでも、でっかぁと、その進化のスピードに驚いてしまう。
 
対してなかなか進化しないモノは、傘。
過去の人も未来の人もそれを一目見れば誰だって傘だと分かる安定感が、傘にはあります。
 
 
そこで、新スタートレックのハゲ。やはりそこの進化は難しいのか。でも、と、穂村さんは思うのです。
 
なぜ役者にカツラをかぶさせない?
 
スター・トレックに限らず、映画の世界での技術は凄まじく、特殊メイクだってできちゃうのに、なぜハゲのままか。もしかしたら300年後のハゲはなにかしらのメッセージが隠されているのでは。制作陣の意図が秘められているのでは。
 
と、ここまでが穂村弘さん。
 
 
 
で、豊田議員の「このハゲ」暴言に触れて思ったのです。
今は「このハゲ!」と罵られてしまう特長も、300年後には最新トレンド、頭脳明晰の象徴、リーダーシップの必須条件となっているのかもしれず。
 
ファッションの流行がくるくる巡るように、美人の基準が時代とともに変化するように、何サイクルかの後の300年後、ハゲだってもしかして、もありうるのです。
スター・トレックはそれを描いているのだったとしたらスゴイことです。
 
300年前、日本という国の女性政治家が「このハゲ」などと叫んでいた!?そんなの信じられない!と呆れ返る未来人の顔を想像するのは楽しい。