【あいちトリエンナーレ「旅館アポリア」】は歴史と向き合う態度、のようなものを指し示している

「はい、できない人は家で!」と持ち帰る宿題ほどイヤなものはありません。
 
一方、放っておいても怒られないのに自ら積極的に取り組んでしまう宿題の、なんとわくわくと興奮することか。
 
からの宿題が、それでした。

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鑑賞し終わった後、なんかすごい作品なのかもしれない、の印象はたしかに感じたのですが、その正体がなんなのかは、すぐにはわからなかった。
 
それでも胸のなかにはどんよりと何かが残り続け、豊田会場の他の作品を見ている間も「旅館アポリア」の記憶がずっととどまり続けていた。
 
 
快感でもなく不快でもなく、
感動でもなく衝撃でもなく、
憤りでもなく理不尽でもなく、
諦めでもなく理解でもなく、
なんなんだこれは。
 
 
その<難問>を宿題として持ち帰り、他の方のレビューを読んだり、知らないワードを調べたりするうちに、おいおいちょっと待てよと。
 
 
「この作品って、とてつもない傑作なのでは」との想いが高まってきてしまった。
 
 
 
 
「旅館アポリア」が展示されている喜楽亭は、大正期に建てられた料理旅館。

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この建物が展示会場となったのは、文化財的価値が高いとか普段から文化催事に貸し出されているからとかではない、この場所ならではの理由があります。
 
 
それは、太平洋戦争末期、神風特別攻撃隊草薙隊が鹿児島の基地に移る最後の夜を、この旅館で過ごしたから。
 
「旅館アポリア」は、喜楽亭だからこその作品であって、この場所で観ることに大きな意義があるのです。
 
 
 
 
展示は、一ノ間から四ノ間までの4つの部屋の映像で、それぞれ「波」「風」「虚無」「子どもたち」とテーマが設けられています。

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作者ホー・ツーニェンとスタッフである「Tomo(新井知行)」「Yoko(能勢陽子)「Kazue(鈴木一絵)」との往復書簡の形をとって展開されていきます。
 
 
これら映像は全部で7つ、合計1時間半ほどあります。
1時間半!長!
 
いえいえ、「旅館アポリア」の優れているのはただの映像展示作品ではないということ。
 
 
なんといっても、音。音響。そして連動した振動感。
 
 
映像のところどころにプロペラの回転音のような響きが現れます。
それがただの音、ではなく、振動を伴った音であること。
ふすまなど建具がびしびしと音を立てて迫ってきます。
そこにあるはずもない風圧さえも感じます。
 
いったいどういう仕組みなんだ?
 
しかも、日本家屋特有の開かれた続き間で2つの映像が背中合わせで流れていても、互いに音声が邪魔していないのです。
 
なんという綿密に計算された音響システム。
 
スタッフ表を見ると、サウンドプロデューサーがNOEL-KIT、サウンドデザイナーがPhasmとあります。何者ですか?すごい。
 
 
 
「音」が今そこにいない者たちの叫びのよう思えてきて、とてつもない効果をもたらしています。
 
 
 
 
 
 
一ノ間から四ノ間までの7つの映像、
 
それは、
 
小津安二郎の映画のシーンや横山隆一のアニメ(でも登場する人物や主人公は顔を隠したノッペラボー)。
 
「神風」という呼び名のもととなった蒙古襲来話。
 
太平洋戦争前、東京ーロンドン間の飛行を「神風号」という飛行機で成功させたパイロットの話。
 
などがたくみにモンタージュされて映し出されています。
 
 
他にも、喜楽亭女将のインタビュー記事や特攻隊草薙隊の集合写真も登場します。
 
草薙隊の写真には、隊員それぞれの<その後>も文字情報で紹介されます。
「消息不明」「編成外」などがあり、
一番多いのが
 
 
「散華」
 
 
華となって散る、です。
 
 
 
 
 
 
三ノ間には映像はなく、テキストだけが上映されます。
そして鑑賞者が、イヤでも向き合わなくてはならないのが、巨大な扇風機(送風機)。
一ノ間二ノ間と続けて鑑賞してくれば、この羽根が回る装置が何を象徴しているかは明白です。
 
 
三ノ間で、テキストとして飛び込んでくるのは、松尾芭蕉谷崎潤一郎、そして主に京都学派の思想家のコトバたち。
 
 
京都学派。
 
名称だけはどこかで聞いたことありますが、京都学派とはなにか、については全く知りません。
だから正直京都学派に関するテキストは、理解する間もなく右から左へとするする流れていき、ほとんど頭のなかには残っていません。
 
持ち帰った宿題の大半が、京都学派とはなにか、でした。
 
 
 
 
 
四ノ間で上映されている2つの映像は、主に小津安二郎の映画と横山隆一のアニメです。
ともに戦前から戦後にかけて人気のあった映画監督、漫画家です。
 
 
 
引用されている小津安二郎の映画のひとつに、『大人の見る繪本 生まれてはみたけれど』がありました。
この映画は、世界で一番偉いと信じていた父親が、上司の前ではペコペコとご機嫌取りをしているのを知り、幻滅する幼い兄弟の話です。
 
映画の中で子どもたちは「大きくなったら軍人になりたい」といいます。
 
それに対し、ホー・ツーニェンはスタッフに問いかけます。
「大人になったら軍人になりたいと言っていた子どもたちは、その後、実際に戦場に行ったのでしょうか」と問いかけます。
 
 
 
 
もうひとつの映像では横山隆一のアニメが上映されていました。
愛くるしいフクちゃんという子ども主人公が、水兵さんになっているアニメが出てきます。
 
 
 
子どもたちに、軍人になりたい、というセリフを言わせたり、人気のアニメキャラクターが水兵さんになったりする映像が、「子どもたち」というテーマの中で描かれると、どうしてもその影響力について考えざるを得ません。
 
 
今の感覚でいうと、戦時中のプロパガンダは、堅苦しく押し付けているイメージがありますが、実際にはそうでもなく、漫画や映画や流行歌に巧みに忍び込ませて盛んに行われていたようです。
 
 
「旅館アポリア」で調査・助言を担当した辻田真佐憲さんが著書『たのしいプロパガンダ』のなかで書いています。(p.58)
 
 
【楽しい例にこそ、プロパガンダの本質がある。
強制的で退屈なプロパガンダを恐れる必要はない。そんなものは反発を生むだけで、大した効果も期待できないからだ。
 
そうではなく、娯楽を通じて知らず知らずの内に浸透してくるプロパガンダこそ警戒すべき存在なのだ。
 
そのような優れたプロパガンダは、政府や軍部の一方的な押しつけではなかった。
むしろ、民衆の嗜好を知り尽くしたエンタメ産業が、政府や軍部の意向を忖度しながら、営利のために作り上げていった。】
 

 

でも、知らず知らずの内の浸透は、遠い昔だけの話でもないような。
『たのしいプロバガンダ』の第五章<日本国の政策芸術>の項を読むと、そんな気もしてきたりして。
たのしいプロパガンダ (イースト新書Q)

たのしいプロパガンダ (イースト新書Q)

 

 

7つの映像を通して鑑賞し、なんといっても厄介なのは、京都学派。
 
最初は、この部分いるのかな?いらないんじゃ、と感じていました。
 
 
自分も含めて京都学派について知っている人ってどれだけいるんだろう。
名前は聞いたことあるかもしれないけれど、どんな思想の学派で、
「旅館アポリア」に登場してくる意味までを、その場で理解納得できる人がどれだけいるんだろう、
と思ったりもしていました。
 
 
 
 
改めて文献のようなものを一から読む気もないので、安易に検索に頼りました。
 
 
 
断片的なにわか知識から大雑把にまとめてしまうと
(大雑把すぎて、違う!分かってない!と言われてしまうかもしれませんが)
 
どうやらこの学派は、大東亜共栄圏(のための太平洋戦争)を正当化する考え方を提唱したようで、散華(特攻死)の思想を理論的に支えたとか。
 
その責任をとって、京都学派の四天王と呼ばれた方々は、戦後、公職追放になったといいます。
 
 
 
 
京都大学の哲学者たちが唱えた思想が、当時の学生たちにどんな影響を与えたかは簡単には想像できません。
 
でも、四ノ間「子どもたち」で上映されている、娯楽として楽しむ映画やアニメが子どもたちに知らず知らずのうちに与えていた影響と合わせ考えると、なんだか虚しくなります。
 
 
 
 
 
四つの部屋、七つの映像、喜楽亭という場所で体験した時間は、鑑賞し終わったすぐの段階では、まだ断片的な情報でしかありませんでした。
これら個別の要素を結びつける力が、自分の知識や理解の点で足りませんでした。
だからなにか気になるけれど、それがなんなのかがわからなかった。
 
 
今こうして自分にできる範囲の宿題に取り組むと、なんとなく(まだ弱いところはありますが)結びつき始めています。
 
 
 
 
アート作品には、
観た瞬間ハッと心動かされ感動に至る作品があります。
衝撃を受け、その場で立ちすくんでしまうような作品。
でも悲しいかな、そういった作品は自分の中では感動が薄れていくのも、意外と早い。
次の展示に移動すると、するっと忘れてしまっている。
 
 
でも一方、なんだかわからないけれどずっしり重く感じ入る作品は、情報を仕入れたり考えたりすることで、じわじわと感動が押し寄せてきます。
そういった感動は結構持続力が強い。
 
「旅館アポリア」はそういった作品でした。
 
 
 
 
ホー・ツーニェンはシンガポールの作家です。
徹底したリサーチ力と全体を構成する俯瞰力と、そして1時間半もの映像を飽きさせずに魅せる編集力。とんでもない人です。
 
日本人ではないのに日本を題材にしてここまでの作品を作り上げるなんてスゴすぎる、と思いながら、いやでも、この「旅館アポリア」は影のスタッフ、Tomo(新井知行き)、Yoko(能勢陽子)、Kazue(鈴木一絵)3人の力がかなり大きかったのではないかと改めて思います。

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ああ、もうひとつ宿題がありました。
 
アポリア」という単語です。
 
この作品に出会う前聞いたことのない単語でした。
知らずに鑑賞していました。
調べてみました。
 
 
 
 
アポリアとは哲学関係のコトバのようで、「道がないこと」を意味するらしいです。
例えば、問題を解こうとする過程で出会う難関、難問。
同じ問いに対してふたつの合理的に成り立つ、相反する答えに直面すること、とあります。
 
 
 
歳月が経ってしまうと、その時取り巻いていた複雑な<いろいろ>が削ぎ落とされ、簡素化され、正解はひとつ、に落ち着いてくるのかもしれません。
今になって考えると、どうしてそんなことをしたんだと、その時代に誰かが出した答えに疑問を抱くかもしれません。
 
 
 
でもその時、押し寄せる「波」や取り巻く「風」に逆らえず「道をなくして」向かわざるを得なかった答えがあったのかもしれない。
 
「旅館アポリア」は、歴史と向き合う時に必要な態度、のようなものを指し示している、そんな作品のようにも思えてきます。
 
 
ああ、もう一度観たい。観なくちゃいけない。
あいちトリエンナーレの、豊田市の、喜楽亭という場所でしか体験できない、すばらしく、でも恐ろしい傑作です。