「え、そんな若かったの!」と「え!もうそんな年!」の2大びっくり年齢に最近立て続けに出会いました。
「え、そんな若かったの!」は、
「え!もうそんな年!」は、
あの声量あの声の張りが衰えない井上陽水。もう70歳なんですね。
時代ごとに解釈が深まる「傘がない」「夢の中へ」の名曲はもちろん、陽水氏の魅力はもうひとつ、あの語りにあります。
この前テレビのインタビュー(「SONGS」)で語っていた近況報告的なエピソードが忘れられません。
70歳になった今、
陽水氏は
「最近外国に興味がなくなってきた」らしい。
そう語りだされると、聞く人見る人は、次にその理由やエピソードが語られるものだと期待をし、待ち受けます。
なぜかな?やっぱ70歳にもなると日本の良さを再発見するのだろうか、長時間の飛行機が辛くなるのだろうか、とかを想像してしまいます。
ここで陽水氏の話は、突然「ブラタモリ」に移ります。
「気分がブルーな時に見ると、何かホッとするんですよねあの番組」と続き、毎週録画をしていると。「ところが、録画もある程度限界になると、これ以上録画できないっていうことになって」「それで、どれか消さないといけないな。どれ消そうかなと思って」
これよくわかります。よくあります。
録画のハードディスク容量が満杯に近づいてくると、消去してもいいものを選ぶ、ということが必要になってきます。
これもう二度と見ないな、いまさら繰り返してみることもないな、との判断でさよならする番組を選びます。
そうそうと頷きながらも、う?でも、さっきの外国に興味がなくなった話はどこいった?となりますよね。話変わった?と。
ところがそこから先が、井上陽水なのです。こう続けました。
「最近(ブラタモリで)ローマとパリ、4週やったんですけど」「それ、消しました」
なんだそれ!「外国に興味がなくなった」の果てが「ブラタモリ ローマ編・パリ編」の消去なんかい!そう来るんかい!
年をとると同じ話を何度もするとか会話がくどくなるとか脈絡がなくなるとかよく聞きます。70歳にもなるとそうなってしまうのか。
いや、井上陽水は以前からその傾向があったのだ。
クリエイティブの原点はなに?との糸井重里からの質問に、(当時50歳前後の)陽水氏は幼少時代のエピソードを語りだします。
明治生まれの母親から、拭き掃除やお風呂炊きや、いろいろな家の仕事を命じられてきました。でもそれが嫌で従わず逃げてきた、と。
ある種の「逃げる」、がクリエイティブの源にある、という話のきっかけです。
さて、このあとどんな「逃げる」が飛び出すのか。
「逃げる」に基づくどんなクリエイテイブ秘話が語られるかと、見る方はここで大いに期待するわけです。
ところがですね、陽水氏は、
<外国に興味がなくなってきた→ブラタモリ録画消去>のような展開に急ハンドルをきるのです。
ある映画の話をはじめます。
その映画とは(1999年公開の)「ブエナ・ビスタ・ソシアル・クラブ」
(キューバの老ミュージシャンのドキュメンタリーで、監督はヴィム・ベンダース。当時結構話題になった)
陽水氏は、知り合いから「この映画いいから絶対見るべし!」と強く勧められたそうです。
そんなにいうのならと、陽水氏は映画館にでかけます。
でも、見ている内に、知り合いが言うほど良くないな、なんかイメージとちがうと感じ始めます。
映画はクライマックスへと向かいます。
映画館にいる誰もが興奮の高まりを迎えるシークエンスへの突入です。
さあ、キューバ人ミュージシャンを乗せた飛行機がニューヨークへと降り立とうとしています。
そこで陽水氏は、
「僕の知人なんかは泣いたっていうんだけど、そうでもないなって思って観てたんですよね、それで飛行機がニューヨークに着く頃になったら、最後ね、見るのも大変になってきちゃっていろいろな気持ちが」「それで、ニューヨークに着く前に、映画館を出たんですよね。ははははは」
なんだい、最後まで観てないんかい!
クリエイティブの原点である「逃げる」から、映画の途中で出る、への展開に、対談相手の糸井重里も大笑い。撮影スタッフらの笑い声も聞こえてきます。
でもさすがは糸井重里です。
この「映画館を出た」を先程の「逃げる」とみごとに結びつけてくれました。
糸井「また逃げた?」陽水「逃げたんですよね。なんかそれ見ることが仕事みたいになっちゃって、そういうのあります」糸井「ははぁ、それは映画の手伝いをしろって言われたんですね、母親に、いわば」陽水「そうですね、見とかないとダメよっ、みたいな」
このエピソードから「強制されることへの抵抗」「自由の尊重」「自分の感覚を信じる」「嫌なものは嫌」などなどの解釈は可能です。でもそんなことは一切言いません。言っていません。
意図してか無意識か、放り投げるように会話を終えています。あとは何をどう読み取ってもらっても構わない。
まるで現代アートのような会話構造です。
さて、ブーメランという武器があります。
映画や漫画では獲物に向かって投げ、相手に打撃を与えてから手元に戻ってくるというような描き方があります。実はそれはフィクション上のブーメランらしいです。
実際手元に戻ってくるブーメランは軽量で、直接標的に当てるのではなく、例えば鳥などの群れをかすめ、移動させるために用いているようです。
直接ぶつけて衝撃を与えるのではなく、気づかせる行動を促す意識を向かせる、ための道具のようです。
手元に戻ってこない攻撃型のブーメランが向かってきたら、いざとなれば身構えることができます。
避けたり叩き落としたり、逃げたりもできます。
でも、手元に戻ってくる型のブーメランは、直接向かってくるわけではないので、不意打ちのように現れ、強いられることなく無意識の行動や変化をもたらします。
井上陽水の会話構造というか手法は、この手元に戻ってくる型ブーメランに似ているような気がします。
気を抜かれ、時に笑いに紛れてしまいますが、話が終わったあと、なにかを考えてしまうのです。
そう、まるで、ふと立ち止まらせ、対峙させ、深く考える時間をもたらす、優れた現代アートのような会話構造。