「秘密の質問」に正直に答える必要ない〜岸本佐知子「ひみつのしつもん」を読んで
お気に入りの翻訳家に岸本佐知子さんという人がいます。
その岸本さんの翻訳をはじめて読んだのは、「中二階」(ニコルソン・ベイカー)という小説でした。
主人公が中二階にある自分のオフィスへ戻るためにエスカレーターに乗って降りる、そのほんの数十秒間、脳裏をよぎったあれやこれやだけを描いた、とんでもない小説です。
靴紐について考える
トイレの便座について考える
ミシン目について考える
ストローの蛇腹について考える
考える考える。マクロレンズで覗き込むように細部にまで考え込んで、ときに枝分かれして再び戻って、また、まだ、考える。
エスカレータに乗っている数十秒の思考が積み重なって200ページの小説となる。スーパースロー小説です。
野球漫画で一球投げるシーンだけで2週3週と連載がまたがるのがあったけど、それの小説版のようなものです。
こういう細部こだわり系の小説、5ページ読んで放り投げる人のほうが多いかもしれませんが、嫌いじゃないです。近いもんがあるからです。
で、翻訳した岸本佐知子さん自身もどうやらそのようで。
「中二階」からの流れで、岸本さんのエッセイを数冊読んでみたけど、こちらもニコルソン・ベイカー的こだわりが漂っています。
エッセイ?創作?の境い目を行った来たりしていて、どこに連れて行かれるかわからない展開に、お友だちになりたいわぁ〜と思ったものです。
エッセイ集のタイトル「気になる部分」や「ねにもつタイプ」「なんらかの事情」だけを見ても、なんとなくそそられます。
世の中<気になること>だらけでちょっとしたひと言にも<根に持って>いつも<なんらかの事情>を抱えて生きている身としては、心強い味方です。
で、岸本佐知子さんの新作エッセイ「ひみつのしつもん」が出ました。
表題作「ひみつのしつもん」は、ログインするときの合言葉として用いられている<秘密の質問>のことです。
岸本さんはあるサイトにログインするときの「ひみつのしつもん」で、「子供の頃の親友の名前は?」と問われます。
はいはいと答えるがエラー。
あれ、○○ちゃんじゃなかったけ?
と、じゃあ、と別の名前を入力。
これもエラー。
いったい自分は誰を「ひみつのしつもん」の答えにしたんだろう。
子どもの頃仲良かった友だちをいくつか思い浮かべ、次々と入力するが、ログインできない。
いつも一緒に寄り添うように時間を過ごした友がたしかにいたはずなのに、違っている。
そうこうしている間に質問は「すきな食べ物」に変わっていた。
このエッセイは次の一文で締めくくられます。
とてつもなく大切な何かに永遠にログインしそこねたことだけが、はっきりとわかった。
ログインする際の「答え」を忘れてログインできなかった失敗談の形をとってはいますが、実は深い。
自分自身にしかわからず、間違いなどあるはずのない秘密の質問に対する答えがことごとく否定されてしまい、確かにあった自分だけの過去の記憶とはなんだ?を突きつけられる一種のホラーのような様相も備えていて、ぞくっとする。
もうひとつは単純に、秘密の質問に対して正直に答えていた自分への問いかけです。
サイトへのログインで求められるよくある秘密の質問には、
母親の旧姓は?
はじめて飼ったペットの名前は?
卒業した小学校は?
出身地は?
はじめて買った車は?
などがあります。
あーいかん。今までこれらに対して正直に答えていた。過去をさらけ出していた。
よくよく考えてみたら、これらの答えはぜんぜん秘密なんかじゃない。
そうなのだ、他人が知ろうと思えばどれだって簡単に知ることだってできちゃう。
ぜんぜん秘密なんかじゃない。
例えば、マッチングアプリで知り合った相手とだって、初対面の会話として、「ペット菜に飼ってるの?名前は?」「出身地はどこ?」「小学校の担任の名前覚えてる?」なんてぺらぺら話したりすることだってある。
ログインする時の秘密の質問、正直に答えることが目的ではなく、自分自身にしかない情報を設定することがメイン目的なのだ。
だから、
母親の旧姓は?に対して
出身地も、M78星雲でも、それでもいいのだ。
うわぁ、これまで正直に答えてしまっていた。
まったくもって秘密なんかじゃない。
ただ気をつけなくてはいけないのは、なにげなく設定してしまったこれらを忘れてしまった場合だ。
コールセンターに電話して口頭で言わされることがあるようです。
こ、これはつらいものがある。