「間違いはふるさとだ。誰にでもある」
あぁミスをした人に言いたい。言ってあげたい。けれどフリーランスだから部下がいない。
なにこれ、肯定ツッコミ?名言ツッコミ?当たり前ツッコミ?
他にもあった。
「知識は水だ。独占してはいけない」「お年寄り!……がお年寄りに席を譲る時代がもうそこまで来ている」「ハゲ!……てないのは今だけかもしれない。先のことはわからない」「休憩は!…取ろう。働き方を変えていこう」「さっき取った休憩は!……短かった」
活字にするとビジネス書の目次か職場の貼り紙みたいだけど、紫スーツが髪を揺らして、あの文脈で言うと、とてつもなくおもしろい。
M-1グランプリ、個人的には圧倒的に「ぺこぱ」だった。
「間違いはふるさとだ。誰にでもある」なんてスバラシすぎます。
なぐさめられて、それでいてクスッと笑ってしまう見事なフォロー。
優しさと寛容を失いがちな、この時代にこそ必要とされるひと言じゃあぁないですか。
【間違いは○○だ。誰にでもある】
誰にでもあるもの…ここに何を当てはめるか?
その選択がムズカシイ。
所有率100%のモノなんてないし。
体や機能の一部から選ぶことはできないし。
愛とか自由とかの、いわゆる概念もそうとは限らないし。
父親?母親?なんていうのも法的?生物学的?どっち?となりかねないし。
そこで【ふるさと】ときた。生まれた地。育った地。
国、都道府県、地域、町、病院、自宅…と細分化していっても、そこはふるさと。
思い出が良いか悪いかはあるだろうけれど、みんなが引きずっているもの、それはふるさと。
開発や移転や町名変更があっても、忘れませんふるさと。
ふるさとという単語は、<地元>とはちがって、いまいる場所から遠く離れた地、というイメージがあります。
そこに戻れば、日々の悲しみ苦しみ寂しさを忘れられる地というイメージもあります。
ふるさとの地に一歩足を踏み入れると、素直になれ、なにもかも許してしまう、そんなイメージさえあります。
だから、
「間違いはふるさとだ。誰にでもある」
は、
言う方も言われる方も、おおらかな許容と素直な反省を生み出すのです。
ああ、なんという。
お笑いから学ぶ処世術。
一票も入らなかったけど2020は[ぺこぱ]注目です。
ところで「ぺこぱ」ってどういう意味なんだろう。
[ぺこ]って謝って、[ぱ]って笑い合う。
てことか?