フィクションから学ぶことがある〜新型コロナウイルスと小松左京「復活の日」
はじめはただの風邪で、次に肺炎となり、最後には死に至る。
南極ロケやらチリ海軍協力の潜水艦やらが登場した映画版もあるけれど、日本映画特有の予算ないのにガンバってる感が空回りしてちとイタい。
でも、小松左京の小説版はやはりスバラシイ。
新型○○とかが流行りだすとつい再読してしまう。
主人公個人だけでなく、各国政府の対応、社会状況、科学的知見、当時の冷戦、軍事暗躍など多面的な描き方にあふれていて、30代前半でこれ書いただなんて凄すぎます。
で、やはり触れていました。
「たかが風邪では、患者の強制収容や強制措置もできん」とか、
「これが法定伝染病だったら、最初から、もっと徹底的な処置がとれるのだが」とか、政府側のセリフが。
こうなったらこういう問題が発生し、こういう対応とこういう議論がもちあがり、ここを立てればこちらが立たぬ、というのは時代が進んでも変わらず、そういったディテールをきちんと書いてくれているので、やはり名作はいつ読んでも色褪せることがありません。
こんな問題にも触れています。
南極以外の人類が滅亡したということは、南極にいる人類だけで未来を築いていかなくてはいけません。
しかし、越冬隊は圧倒的な男性社会。
男性の<本能>の問題とともに、<種の存続>という問題も当然浮かび上がります。
性行為の管理と人類の保存という問題。
この問題、小説版ではけっこうあっさりと済ませています。
映画版では、<愛>というものとの向き合い方にも触れています。脚本家にひとり外国名があるということからかもしれません。
「復活の日」にはこんなセリフがあります。
「どんなことでも終わりはある、ただ、どんな終わり方をするかだ」
新型コロナウイルスだけに限らず、いったいぜんたいどういう風に終わりを迎えるんだろうという問題が跋扈しています。
終わらせずオリンピックのどさくさに逃げ切ろう、という魂胆が見え隠れする問題もあります。
いつの間にかどっか行っちゃた、だけは勘弁してほしい。