写実を超えた金魚たち〜深堀隆介展で感じたこと

「本物そっくり」
 
美術作品に対するその感想は、褒め言葉なのかどうか、よくわかりません。
エアブラシや鉛筆を使って本物そっくりに描く作品をよく目にしますが、「上手いなぁ〜」以外に何かを感じたことはありません。感心して呟いても、すぐ次の瞬間には忘れてしまっています。(個人の感想です)
 
 
ただそんな中、深堀隆介さんの金魚には、写実を超えた「なにか」を感じてしまいます。

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透明な樹脂のなかで、層ごとに描かれた金魚の断片が重ねられることで、俯瞰すると金魚の立体となってリアルに浮かび上がってきます。
支持体である樹脂はそのまま「水」の表現となり、透明でありながらこれもまたリアルです。
うん?透明で?リアル?
 
 
風は見えません。
でも揺れる木々や舞うビニル袋や肌の感触によって「あ、いま風が吹いている」を知るように、深堀さんの水は、相対として描かれている金魚によってその存在が見えてきます。流れや水温さえも感じてしまいます。
 
尾びれ背びれの滑らかな動きは、水の中で金魚が辿ってきた軌跡の表れで、1秒前1秒後の動きさえ思い起こさせます。

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金魚の思い出は、夜店の裸電球と水で膨らんだビニル袋と2、3日だけの世話と、飽きた頃の<死>
もう飼わないと宣言しても、次の夏になるとまた物置から汚れた金魚鉢を引っ張り出すことになります。
 
 
深堀隆介さんは創作に悩み自信を失っていた時、7年間生き続けた金魚の存在に改めて気づき、その美しさに創作意欲をかきたてられたといいます。
 
「金魚救い」
 
金魚に救われたこの出来事を、深堀さんはそう呼んでいます。
 
 
 
刈谷市美術館で11月4日まで開かれていた【深堀隆介展】は徹底して金魚です。絵画もありますが、圧巻はさまざまな容器のなかで泳ぐ金魚です。
 
枡、ケロリン桶、逆さまの安土城、潰れた空き缶、番傘、引き出し、割った竹などなど(水=樹脂が入る)あらゆる器のなかで、深堀さんの描く金魚がいきいきと泳ぎ回っていました。
 
金魚鉢や水槽だけでなく、金魚の生きる場所を限りなく広げてあげることで、「生きろよ」という、深堀さんの金魚への感謝と愛情が込められているような気がします。
 

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「金魚救い」と名付けた金魚の創作。
おそらく初期はその名の通り、自分を救ってくれた金魚の姿に自分自身を重ね合わせていたのでしょう。
その変遷を想像しながら順に展示を観ていったのですが、ある作品で「金魚救い」という意味の広がりをじんわりと感じてしまいました。
 
その2つの作品のタイトルは「小さな一歩」と「夕凪(ゆうなぎ)」
どちらも東日本大震災がきっかけで生まれた作品です。
 
 
「小さな一歩」
 
津波で命を落とした8歳と3歳の兄弟の上履きが、瓦礫となった家屋の土砂から見つかりました。深堀さんは二人を偲んで、その上履きに金魚を描きました。
姉の上履きには金魚と桜の花びらを。弟の上履きには金魚と花火を。
 
「夕凪」は、津波で行方不明となった7歳の少女の筆洗バケツに金魚を描いた作品です。
 
 
いまはもう履く人のいない上履きと、今はもう筆を洗う人のいないバケツ。
そのなかで金魚は泳いでいました。どこからか来て、どこかへと泳いでいくように。
 
 
今回の展覧会では、その多くの作品が写真撮影禁止でした。
「小さな一歩」も「夕凪」も撮影禁止です。今思い出しながらこれを書いています。
上履きにはたしかひらがなで名前が書いてあった。
全体的にちょっと薄汚れていた。その汚れは瓦礫による汚れなのか、学校生活の汚れなのか。
筆洗バケツはたしか緑色だったような。バケツの縁には筆でぬぐった絵の具の色がのこっていたような。バケツの周りになにかのキャラクターの絵が印刷してあっったような。
 
 
亡くなった子どもたちやご遺族にとって当事者でも関係者でもない者にとって必要なのは、すぐにフォルダにしまわれてしまう記録よりも、こうした記憶なのかもしれないなと思ったりもしました。

 

深堀隆介作品集 平成しんちう屋

深堀隆介作品集 平成しんちう屋

 
金魚養画場

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