2012年6月某日ベトナム時間23時35分。
ハノイ・ノイバイ国際空港出発エリアで、名古屋便の搭乗手続きがはじまった。
私が並ぶ列の前後には、おそろいのポロシャツを着たベトナム人の若者たちがいくつかのグループに分かれ並んでいた。ポロシャツの背にはみな同じ文字がベトナム語でプリントされている。
なんだろう、スポーツか教育か、そんなイベントが名古屋で開かれるのだろうか。
ただ彼らの多くが、ダウンジャケットやコートなど冬物の上着を手にしている。
これから日本は、特に名古屋は蒸し暑く不快指数に満ちた夏がはじまるというのにだ。
ベトナムには仕事で来た。
ある日本企業の生産工場がハノイ郊外にあり、その生産の様子を撮影するためだ。
私は広告映像の企画と演出をするディレクターをしている。
今回その日本企業を紹介する映像の制作を依頼され、ベトナム工場の様子を撮影しに訪れた。
仕事は予定通り4日ほどで終り、今日ハノイ・ノイバイ国際空港から日本へと帰国する。
3人掛けシートの通路側が私の席だった。
私の隣りには、あのおそろいのポロシャツを着た女性がいて、彼女をはさんだ窓側も、同じ仲間の男性だった。ふたりとも若く、少年と少女と呼ぶにふさわしかった。
ふたりはひょっとしてはじめての飛行機か?と思えるほど、落ち着きがなかった。
座席から首を伸ばし、前方後方をしきりと見回したり、前のシートの背に収納されている冊子や救命具のマニュアルを読みもしないのに出したり入れたりしている。
そんな様子が気になった私は話しかけてみようと思った。
ベトナム語なんてもちろん知らない。じゃあ英語か?それとも多少の日本語は理解できるか?
日本語の単語を使って聞いてみた。
「ひこうき」「はじめて?」
臨席の少女は答えてくれた。
「はい、はじめてです」
通路側の私と中央席の少女が会話をはじめたことに気づき、窓側の少年も興味深げに顔を突き出してきた。
少年は私を指さしてこう言った。
「なごや?」
名古屋の人ですか?の意味だろうと私は頷いて「なごや」と答えた。そしてふたりを示し「なごや?」と問いかけた。
二人はほっとしたように「なごや、いきます」
そして聞きもしないのに「はたらきます」とつづけた。
そうか、仕事か。なにかのイベントの参加かと思っていたが、日本へは仕事で行くんだ。
この4日間のベトナム滞在で私はすっかりベトナムが気に入ってしまった。
といっても仕事だから、多くの時間、工場内にいて、それほど町を出歩くということはなかった。
でも、工場で出会った現地従業員たちの黙々と働く姿はとても好感も持てるものだった。
ハノイ郊外の工場で自分たちが組み立てる部品のひとつひとつが世界中で必要とされているんだ、という自負めいたものがあるかどうかはわからない。
いったいこの部品が最終的にどういった製品の一部となって稼働していくのかさえも知らないのかもしれない。
その工場で働く彼らはみな若かった。女性たちは化粧気もほとんどなく、せいぜいイヤリングやピアスで自己主張しているかに見えた。
撮影のためカメラを向けると、明らかにカメラを意識するかのように振り返りはしないが、視界の片隅にカメラを意識しているのがはっきりとわかった。
隣り合う仲間と目を合わせ、(ほら、いま撮られてる)と小さく笑みを浮かべるなどその恥じらいが可愛かった。
撮影が終わった夜は、街へ繰り出し連日ベトナム料理を味わった。どれも美味しく、レストランのスタッフはどこも愛想がよく、身振り手振りのコミュニケションが楽しかった。
「5かげつ にほんご べんきょう しました」
臨席の少女は言った。その成果をさっそく試してみたいのか続けざまに問いかけてきた。
「おきゃくさんは ベトナムへと かんこうで きましたか」
「おきゃくさんは しごと なにですか」
おきゃくさん、と私は呼ばれた。
あなたでもYouでもなく<おきゃくさん>
「おきゃくさん」と呼びかける少女の顔には、その呼び方が日本人にとってどれだけの違和感がある呼称かなど、疑いの色が一切なかった。
日本で誰かに話しかけるときは<お客さん>と呼びなさい。
そう厳しく教えられたことが想像できる。
彼らはこれから日本でどんな仕事に就こうとしているのだろう。
日本で接する日本人すべてが<お客さん>に当たる人ばかりの仕事なのか。飲食や販売などサービス業?それとも、なんだ?
いったいどういう仕事に就こうとしているのか聞くことがためらわれた。
少年と少女は顔を見合わせてベトナム語でなにかを話している。なにかまだ私に聞きたいことがあるような感じを受けた。
そんな様子に、私は顔を二人に向けて無言で促してあげた。
少女は言った。
「なごや さむいですか」
搭乗手続きに並ぶ彼らが手にしていた上着が思い出された。
日本がこれから夏に向かうということを知らないわけがない。
観光でほんの数日数週間に日本に滞在するのなら冬服は必要ない。
それでも彼らの多くは冬服を手にしていた。
こうして尋ねてくるということは、彼ら自身もその必要性に疑問を持っているのだろう。
日本で暮らし、冬になり寒くなったらその時日本で冬服を買えばいい。
と考えるのは簡単だ。
でも、彼らには彼らなりの考え、というか計算があるのだろうと想像できる。
日本で買う服は高く、簡単には手に入れられないかもしれない。その時になって困るよりも、だったらベトナムから持っていけばいい。夏だけの滞在でないのだから、と。
10代の後半か20代前半、はじめての飛行機、同じ目的で日本へ向かう仲間たち。
異国での仕事が大変で辛くなっても簡単に帰るわけにはいかない。夏を超え冬を超え次の一年を日本で迎える。
ベトナムを旅立つときからこうして冬を迎える準備にまで思い巡らすことで、簡単にはベベトナムには帰らない。帰れない。決意を自ら課しているのかもしれない。
これからの名古屋がいかに蒸し暑いかを教えてあげると、二人は顔を見合わせ悲しげな顔をした。
飛行機はまもなく離陸した。
深夜0時過ぎの便なので機内の明かりは消され、静かな空間となった。
私も彼らもどちらからともなく黙り、それから会話を交わし合うことはなかった。
あれから7年。ベトナム人技能実習生の叫びを伝える「ノーナレ 画面の向こうから」を見た。
ショックだった。
日本へ行けば技能が身につく、お金が稼げると信じ、ベトナムを離れてみたものの現実は…という残酷さがリアルに描かれていた。
番組を見て、あのベトナム人少年と少女を思いだした。
どんな顔だったかはすっかりと忘れている。いま名古屋ですれ違ったとしてもわからないだろう。
いや、そもそも7年たった今も名古屋で、日本で働いているかどうかもわからない。
村上春樹の小説に「中国行きのスロウ・ボート」というのがある。
東京など都会は別としてまだ周りにそれほど外国人が当たり前でなかった1980年に発表された短編だ。
主人公が知り合った3人の中国人の記憶についての物語だ。
主人公が小学生の時、最初に出会った中国人、それは模擬テストの監督官だった。
中国人小学校の教室に、試験を受けるため集まった主人公ら日本人小学生に、監督官である中国人教師が語りかける。
「中国と日本はお隣リ同士、みんなが気持ち良く生きていくためにはお隣り同士が仲良くしなくてはいけない。(中略)そのためにはお互いを尊敬しあわねばなりません。」
尊敬しあう例えとして,中国人教師はこう続ける。
「もしも君たちの学校に中国人小学生がテストを受けに来て、同じように机に座ったと想像してみて下さい。
月曜の朝、みなさんが学校にやってきます。
するとどうでしょう。
机は落書きや傷だらけ、椅子にはチューインガムがくっついている、机の中の上履きは片方なくなっている。
そんな時どんな気がしますか?中国人を尊敬できますか?」と。
この一人目の中国人に関してのエピソード、オリジナルの1980年版と2005年に短編選集として出版された「象の消滅」内とでは、その締めくくりが異なる。
オリジナルでは、主人公は落書きをしてしまう。
後日談としてそれは描かれ、翌朝自分の机に落書きを見つけた見知らぬ中国人小学生へ想いを馳せている。
一方2005年版ではこうした締めくくりはなく、中国人教師の「顔を上げて胸をはりなさい。そして誇りを持ちなさい」という言葉を、主人公が思い出して章を閉じる。
私がベトナムへ行った2012年秋、日本政府の尖閣諸島国有化をきっかけに、中国各地で反日デモが沸き起こった。
その数カ月前の5月、私は先に述べた撮影の仕事で中国は広州も訪れた。
自分にとってははじめての中国で、それ以前も中国(中国人)といえば近所の工場で働く人やコンビニの店員という集合体で、知り合いさえもいなかった。
仕事(撮影)で訪れた中国では何人かの中国人と知り合った。
一日中行動をともにし、意思を伝え合い、冗談を言い合い、写真を撮り合い、facebook友だちとなった中国人もいた。
中国人という集合体でしかなかったものが、顔や名前を思い浮かべる個人、そう、笑顔で問いかけてくる○○さんや△△さんという名前を持つ個人へと変わったのだ。
となると不思議なもので、反日デモに関するニュース映像を見ても、騒動への怒り以前に、○○さん△△さんは今何しているんだろう、この状況にどう感じているんだろうの方が気になってくる。
もちろん日の丸への冒涜や日本に関するものへの侮辱や破壊は許されるわけがなく、民度の低さにはあきれかえるところもある。
でもそこで、相手と同じ沸点で感情を爆発させてもなにも発展はしない。
個人としての中国人と知り合えて以来、こちらも個人として考えてみる余裕というか、冷静さが生まれた気がする。
特に深く関係していなくても、一度でも訪れた街や土地の名前を偶然見聞きするとなぜかホッとするように、そこにつながりを見つけるとぐんと距離が近くなることがある。
もっと直接的に、日系企業で日本人とともに共通の目標に向かっている人もいるし、国籍を超えて愛し合っている男女もいるだろうし、日本文化にこよなく親しんでいる人もいるだろうし、お互いに尊敬しあっている関係の人たちも多くいることだろう。
国と国の問題はそんな小さなつながりだけで解決できるほど単純じゃないだろうけど、やられたらやり返すを踏みとどまらせるのは、小さな、そんなつながりのひとつひとつのような気がする。
「中国行きのスロウ・ボート」の監督官がいうように、
月曜の朝、この机に座る誰かを思い浮かべる。
そんな余裕と冷静さを持つことで「顔を上げ胸をはり、そして誇りが持てる」
「ノーナレ 画面の向こうから」で助けを求めていたベトナム人女性たち。
あなた方が出会った日本人は同じ日本人からしてみてもひどい。
あなた方を人間ではなく、単なる労働という道具として扱っていたことを代わって謝りたいぐらいだ。
あの日本人は、たまたま出会ってしまった最悪の日本人だったと、どうか信じてほしい。
そして、7年前のあの機内を思い出す。
ベトナム人少年少女にとってあのときの私は、
ベトナムを旅立ち、日本に到着する前に初めて会話を交わした日本人であったということを今あらためて気づく。
もしもいまもう一度あの二人に会えたならば、聞いてみたい。
はじめの日本人の印象はどうでしたか。
不安な心をほんの少しだけでも落ち着かせる、そんな印象を与えることができていましたか、と。