村田沙耶香「信仰」

「なあ、俺と、新しくカルト始めない?」ではじまる短編「信仰」、ここ数週間のあれやこれやのなかで読むとかなり多角的複層的に見えてきて、タイミングってのも結構重要だなと思ってしまった。
 
 
 
「原価いくら?」が好きな言葉で、現実こそ正義で現実こそ自分たちを幸せにする真実の世界だと思っている主人公は、子どもの頃からお祭りのかき氷もアクセサリーもコーヒーも「これ原価いくら?高すぎない?」と指摘してきたかなりの現実主義。
 
ブランドや人気や流行やらに<騙されているように見える>友だちや妹に、
目に見えないものにお金払って騙されちゃダメと言ってきた。
良かれと思ってのことであっても、こうした<「現実」への「勧誘」>は当然煙たがれる。
 
友だちからも、
「そりゃ、正しいのかもしれないよ。でも、それがなおさら嫌なの。『現実』って、もっと夢みたいなものも含んでるんじゃないかな。夢とか、幻想とか、そういうものに払うお金がまったくなくなったら、人生の楽しみがまったくなくなっちゃうんじゃない?」
なんて言われ、友だちを失っていく。
 
妹からはこうとまで言われるのだ。
 
「お姉ちゃんの『現実』って、ほとんどのカルトだよね」
 
 
 
そんな彼女が同窓会であった男に「俺と、新しくカルト始めない?」と誘われてしまう。
とうぜんリアリストの彼女は、ハナっから相手にはしない。
が、これまでの自分を振り返り、
「騙される才能がある人間になりたいの」と参加することになる。
 
 
 
2019年に書かれ、出版は今年の6月で、もちろん「例の事件」の前。
あまりのタイミングに、60ページ弱の短編を続けて2回読み返してしまった。
 
ここ数週間騒がれている「信仰」のニュースに触れるたび、どうしてあんなのに騙されちゃうんだろう、と不思議で仕方なかったけれど、この短編を読むと、ひょっとして「現実」と「信仰」は境界線はなく表裏一体なのか、と思ってしまう。
 
怪しげにみえる信仰は、あちら側にしたら揺るぎない「現実」で、
こちら側の堅実な「現実」は、見方を変えれば「信仰」かもしれず、
あ、そういえば「ブランド信仰」なんて言葉があったなぁと思いだしたりもしてしまう。
 
といっても、現実社会のあの団体のやり方の正当化につながるものなんかじゃなく、ただ優れたフィクションにはこうして一旦立ち止まらせる力があるんだなということです。
 
 
「信仰」のなかにはエッセイも2本含まれています。
この2本がまた素晴らしく、
ひとつは、村田さん自身が小さい頃から感じていた居心地の悪さから、心のなかにイマジナリー宇宙人を存在させていた話。
もうひとつは、その奇妙な作風や言動から『クレージーさやか』とキャラクター化ラベリングされていたことへのもやもやと、多様性という名の体裁の良い排除の薄気味悪さについて書いている。