タイのCMに思う、もし自分が監督だったらあのカットを入れたかどうか?

タイのCM、特に生命保険会社のCMは泣ける、と評判です。
そのシリーズのひとつにこんなのがあります。
 
幼稚園か保育園の発表会なのか、親たちが見守るなか、子どもたちが歌っています。
曲は「ケセラセラ(Whatever will be, will beなるようになる)」
歌う子どもたちのカットが積み重なるにつれ、子どもたちが障がいを持っているということに気づきます。
 
最後を締めるコピーはタイ語だから意味は分かりませんが、じっと見続けてしまう感慨深いCMです。
 
 
ただこのCMで2つの疑問が。
 
 
ひとつは、おそらくプランにもコンテにもなかったであろうカットの存在。
歌の後半、スタッフの姿が2カット挿入されています。
聴き入っているその顔は神妙で真剣。技術、という仕事を離れ、その歌声と彼らの運命に心惹かれてしまった、そんな表情です。
 
 
何台のカメラで同時撮影していたのかわかりませんが、おそらく撮影中、監督はスタッフのその表情に気づき、カメラマンへ撮影を指示したのでしょう。
 
こうしたドキュメント的撮影現場の場合、監督はレンズの向いていないところにもナニカないかと目を光らせなくちゃいけないから、このショットは奇跡なんかではなく必然だったとは思います。
演出は常に全体を見るべき立場だから、スタッフであろうと惹きこまれている表情を発見したら撮影までは、しておくでしょう。
 
 
問題はこの後。
このカットを本編に挿入するかどうかの判断。
 
子どもたちと親たちだけの閉鎖空間に、客観的で異質であるスタッフのカットを入れこむことは正解なのかどうか。
 
 
 
もうひとつの疑問は音楽。
「Que sera, sera ケ・セラ・セラ (Whatever will be,will be(なるようになる)」
ヒチコックの「知りすぎていた男」でドリス・デイが歌っていました。
 
♪~
子どもたちは自分は将来何になるのって私に尋ねるの
美男子になるの?お金持ちになるの?
だから私は優しく答えるの
 
ケ・セラ・セラ
何事もなるようになるのよ
未来のことなど予測できないわ
自然の成り行き次第よ
~♪
 
 
この歌はメロディがステキで好きな歌のひとつ。
でも、詞の内容を読み解くと、
もうすでに運命は決まってる 変えられない 未来は自分のチカラでは動かしようがない という諦観のようなものを感じてしまうんだけど…考え過ぎなのか。
 
 
で、ケ・セラ・セラの内容をそう捉えると、スタッフカットの挿入が異なった意味を帯びてくるから残酷です。
 
歌う子どもたちと見守る親たち、だけの構成なら、この先変えられない運命をともに受け入れ、なるがままに生きていこう、という当事者間の愛情や絆に強さに心打たれるけれど、第三者であるスタッフのカットが挿入されると、愛情とか絆とかいう結びつき以外の「同情」「哀憫」「慈悲」の要素を感じさせてしまうからです。
 
だから、もしも、自分がこの作品の演出家だったら…悩むな、悩むだろうな。